映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

寝ずの番 (中島らも)

 中島らもの短編集「寝ずの番」を読んだ。
 最初に「寝ずの番」が1から3まで、三部作で登場するのだけれど、咄家の話で、「1」で師匠が死に、「2」で兄弟子が死に「3」で師匠の奥さんが死んだという話だったので、近しい人がそんなにポンポン亡くなるなんてことは、現実にはそうないだろうと、フィクションのつもりで読んでいたら、どうやら実話に基づく話だったようでそこは驚いた。他の収録作品にも、作者を含め、実在の人物が実名のまま登場するものあがり、実生活が作品に盛り込まれていたり、題材となっていることは十分感じられるのだが、それでも読む側には「小説」という体裁で伝わってくることが、不思議と言えば不思議だ。
 文庫の背表紙に「ちょっとHで、笑撃的ならもワールドを満喫できる短編集」といったような文句があったが、本当にその通りで、娯楽として大いに楽しめる本だった。
 会社員も経験し、劇作家、小説家、随筆家、ミュージシャン、俳優、と様々な顔をもち、アル中や躁鬱病とも共に生きた作者本人の人生と同じように、作品も相当に多様なものが書かれたのではないかと想像する。次にこの作家の本を手に取るときが楽しみだ。

 
寝ずの番


探偵はBARにいる

 大泉洋主演の「探偵はBARにいる」を観た。
 以前はどんな物語であれ、人が殴り合うようなシーンはあまり好きではなかったのに、この映画の中の探偵とヤクザのやり合う場面には、どこか爽快さすら感じたのは、松田龍平演じる主人公の相棒が、気持ちいいほど強かったからだろう。ただ、最後に美しい女性がこめかみを撃って自死する場面は、顔を映してほしくなかった、というのが正直なところだ。もっと言うと人が銃で撃たれて死ぬシーンが多く、その度に目を背けたかった。私は気が弱いのか、リアルに感じ過ぎなのか、それとも私と同じような人もたくさんいるのか、わからないけれど。
 ストーリーとしてはミステリーで、しかも結構入り組んだ謎だったと思うけれど、謎解きを楽しんだというよりは探偵たちの日常を楽しく鑑賞した感じだ。主人公とその相棒の人柄やコメディタッチな展開のお陰で、たくさんの血が流れても、作品全体が明るさを持っていたのかもしれない。
 大泉洋は他に類をみない個性的な俳優のように思う。本当に魅力的だ。とはいえ松田龍平の方に気持ちを持っていかれる女性も多いだろう。などと言うと大泉洋はずっこけるだろうか。松田龍平ポンコツ車に向かって「ごめんね」と言葉をかける場面が私は好きだ。彼もまた、どんな役でもモノにする非凡な役者のように思う。

探偵はBARにいる 通常版 [DVD]
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エイジ (重松清)

  重松清著の「エイジ」を読んだ。 
 中学2年生の男子が主人公の物語で、「人が子どもから大人へと成長する過程を描いている」のかもしれないけれど、読んでいる間は、そんなふうにはまるで感じていなかった。読後に内容を振り返れば、そういうことになるけれど、小説の中にいるときはそこまで客観的にはなれない。
 何か出来事に出会ったときの心の揺れや、その出来事を通しての自分自身の変化というものは、中学生2年生でなくてもきっとあるはずで、だからだろうか、自分の年齢とはかけ離れた主人公の日常を、同級生の一人になったような気持ちで、最後まで読んだ。
 人と人が関わるということや、自分の心とどう向き合って、或いはそれにどう対処していけばいいのかを考えるためのヒントが、重松作品にはいつも溢れている気がする。いや、ヒントというのは少し違うかもしれないけれど。
 この本を読んで「どんな自分も自分だし、その自分を受け入れてもらいたいという欲求は、当たり前のものなのだ」と思えた。
 誰もが、誰かには全面的に受け入れてもらいたいのだろう。


エイジ (朝日文庫)





おと な  り

「おと な  り」を観た。 
 映像が美しい映画だった。桜の花びらに投写しているかのような、儚げな美しさがあって、他の映画とは映像の質感が違っていた。作品全体に、なんだか童話のような雰囲気があったように思う。
 ストーリー展開としては、ありそうにない偶然が重なり過ぎのような気がしないでもなかったけれど、世界のどこかに、本当にこんな偶然があってほしいと思えるような映画だった。
 主人公の同僚の言葉で、印象に残ったものがあるので書き留めておく。
「いい加減にやめなよ。人のせいにして自分許すの」
 言葉通り意味の、ストレートな表現だけれど、解釈次第で誰にでも当てはまる場面がありそうな、深い言葉の気がした。
 童話のような気配を漂わせながらも、この物語が現代を生きる男女を描いたものとして成立しているのは、主人公と関わる回りの人たちが、こうした言葉を要所要所で投げかけているからかもしれない。


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ショートカット (柴崎友香)

 柴崎友香の「ショートカット」を読んだ。
この作家の作品は、数年前に読んだ「春の庭」に続いて二作目になる。
 「春の庭」を読んだ時には私が気づかなかった柴崎さんの持ち味、のようなものが、今回はうっすらとかもしれないけれど見えたように感じている。
 普段、たとえば電車に乗っているときなどに、「お互い認識できなくても、この車両に、昔旅先ですれ違った人が乗っていたりするかもしれない」などと思うことがよくあって、それは感傷とは違う、単なる物の(世界の)見方として表れる考えなのだけれど、だから何、と言われたら答えようのない、宙ぶらりんな思考だ。でもその宙ぶらりんな思考も、実はベクトルを持っているのだと、この小説は示しているような気がする。さらに、この小説には人の心理や感情といったものを、世界を構成する物体として捉えている感じがあって、そこがなんだか新鮮だった。
 自分の気持ちを「物」のように眺めて、少し距離をおくことができれば、見える世界がぐんと広がったり、180度変わったりするかもしれない。これからは私も、時々は自分の気持ちや感情と、そんな風に接してみたいと思う。


ショートカット


森山中教習所

 賀来賢人野村周平が共演した2016年公開の映画「森山中教習所」を観た。 
 ツタヤでタイトルを見るまで、この作品の存在も原作のコミックの存在も知らなかった。ちょうど家族が免許合宿中だから、なんとなく引っかかって、そのくらい何気なく借りてきたのだけれど、三泊で借りてきて三日間毎晩観てしまった。
 感動したとか、そういう訳でもなく、すごく面白かったと言いたい訳でもなく、なんだかとてもさりげない映画だったように思う。
 でも三日の間に三回観た作品など初めてで、ただ暇だったから観たということでもない気がする。
「人として間違ってる」という言葉が、こんなに前向きに明るく響くのを初めて聞いた。そしてこの言葉に妙に励まされてしまったように思う。
 教習所に通って免許を取るなんていうことは、大抵の人が通過する普通のことかもしれないけれど、車の運転ができるようになるというのは、大きな変化だ。実はとても大きな変化を、そうとは意識せず人は繰り返していくのかもしれない。そしてもう二度と会えないと思っていてもめぐり会ったり、また会えると思っていても二度と会えなかったりする。
 何でもない人生なんて、そうあるものではないのかもしれない。

森山中教習所 [DVD]

まゆみのマーチ (重松清)

 この作家の自選短編集・男子編「卒業ホームラン」に続き、自選短編集・女子編「まゆみのマーチ」を読んだ。
 「卒業ホームラン」の読後に述べた通り、重松清作品の温かさや、人の心の、というか人そのもののというか、掘り下げ方にはやはり引き込まれるものがあり、他の著作もぜひ読んでみたいと思った。
 この本を読んで思い出したことがある。それは「子の心、親知らず」ということだ。ずいぶん昔だけれど「親の心子知らず」という言葉を聞いて、子どもの立場にしてみれば「子の心親知らず」と言いたいように思ったのだ。自分が親になってからも、子ども時代にそう感じたことを否定する気にはなれない。
 ただ、個人的には、子どもの心を知ることはできなくても、子どもの存在を丸ごと受けとめることのできる親でいたいと思う。子どもの言うことに耳を傾け、やることや考えていることを、時には理解できなくても、それがあなたなのねと認めて、受け入れたい。どんなときもそうするということが、子どもの味方でいることなのではないかと思う。


まゆみのマーチ: 自選短編集・女子編 (新潮文庫)



卒業ホームラン (重松清)

 重松清の短編集「卒業ホームラン」を読んだ。
 この作家の作品はデビュー作の「ビフォア・ラン」、直木賞を受賞した「ビタミンF」のほか「流星ワゴン」「きみの友だち」を読んだことごある。どの作品もいつも、文章そのものが、というのか、作品全体がと言った方がいいのか、とても優しい。そのことに、この短編集を読んでみて改めて気づいた。物語の内容はそれぞれみんな違うし、母子家庭やいじめなど、一見寂しかったり悲しかったりするような状況が語られていたとしても、なぜだかいつも、日だまりに守られながら読んでいるような気持ちでページをめくっていたように思う。主人公や登場人物が、強さと弱さを表裏一体のように合わせ持っているのはとても自然なことで、同じように温かさと冷たさや、頑固さと柔軟さ、明るさと暗さも、同時に持っているのが人間で、それは矛盾ではないのだと教えてくれているような気がする。家族がテーマの作家だと言われているかもしれないが、家族や友だちを題材にして人間を描いているなぁ、と思わされる。
 この本の収録作品で、気に入ったものを一つ選ぶとしたら「サマーキャンプへようこそ」だろうか。アウトドア活動などしたこともない父親と息子がキャンプに出かけ、まるで馴染めず途中で引き上げてしまう話だ。「一つ選ぶなら」と言ってしまったけれど、「エビスくん」も捨てがたい。

卒業ホームラン: 自選短編集・男子編 (新潮文庫)



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百円の恋

 安藤サクラ新井浩文が共演した2014年公開の映画「百円の恋」を観た。
 タイトルをみると、恋愛ものに思えるけれど、ラブストーリーという枠には収まらない要素が、映画全体に満ちあふれていた。
 恋愛も家族愛も夢も仕事も無気力も怠惰も、どれか一つが人生の全てになることはなく、それらの幾つかが、或いは全てが呼応しあって、人ひとりの人生が進んでいくのだと感じた。こうして言葉にすると当たり前のことのようだけれど、たとえば「結婚はこりごり、これからは仕事に生きよう」などと思ったところで、仕事が生活のすべてには、きっとなり得ないのだ。よく「何かを手に入れるには、何かを捨てなければならない」と言うけれど、同じ意味て「何かを捨てたいなら、何かを引き受けなければならない」とも言えるのだろう。
 映画というものが、言葉にできない様々なもの、あえて言うなら自分や誰かや世の中に対する歯痒さやら疑問やら欲望やらを表現するものだとしたら、「百円の恋」は存分に表現していた。こういう映画をもっと観たいと思う。
 
百円の恋 [DVD]



ギルバートグレイプ

 レオナルド・ディカプリオジョニー・デップが共演した1993年のアメリカ映画「ギルバートグレイプ」を観た。
 タイトルに覚えがあり、昔、と言えるくらい以前に誰かが見るべき映画だと言っていたのを思い出してかりてきた。特に配役情報など気にせず見始めたので、最初の30分くらい、これはディカプリオに見えるけど、まさか本当にディカプリオだろうか、と疑っていた。そのくらい最近のディカプリオとは違って見えた。などと胸を張って言えるほどには最近のディカプリオの作品を観ていないのだが、彼に対する私の勝手なイメージとは違っていた。役柄や年齢のせいもあるかもしれないけれど、この作品の中では彼はディカプリオではなく、登場人物のアーニーでしかなかった。この若さで既に俳優の真骨頂を見せてくれたように感じる。
 この映画を観て思ったのは、人はみな自分の暮らしは当たり前の日々になってしまうから、そのドラマ性にはなかなか気づかないのではないか、ということだ。人はどう頑張っても自分以外の者にはなれない。自分の人生を生きるしかないのに、その人生さえ自分ではどうしようもない場面が多い。多いどころか実はその連続なのかもしれないし、どうしようもなく進んでいくように見えても全ては自分が原因とも言えるかもしれない。本当に解釈次第だし、ものは言い様だ。そして、今こう思う。「自分の人生を生きるのだ」という言葉の真意は「この世に一つしかない自分の人生を生きているということを、自覚しながら生きるのだ」なのではないか、と。
 「生きよう」と思って産まれてきた人などひとりもいないだろうと思うと、少しだけ世の中が優しく見える気がする。

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ブルージャスミン

 2013年のウディ・アレン監督のアメリカ映画「ブルージャスミン」を観た。
 主人公は、ジャスミンに違いないのだけれど、ジャスミンとその妹、の二人の対比がとても色濃く、妹もまた主人公だった気がする。
 着るもの食べるもの使うもの、すべて高級品に囲まれた生活をしているからといって、それだけで幸せとは限らない。どんな上等なものも、物でしかない。そうした物たちは後回しにしても、夫婦の関係や家族の絆が上等であれば、人からどう見えようときっと幸せなのだ。そんなことは当たり前のようだけれど、夫婦であれ家族てあれ友だちであれ、人と人の関係というのは、いろいろと難しいものがある。年月や状況によっても変化する。血が繋がっていれば絆は強いのかもしれないけれど、血縁に絞られているだけで心からの尊敬や相手を尊重する気持ちが薄ければ上等な関係とは言い難いように思う。でも、相手のことをただ好きでさえいれば、尊敬や尊重は自然と同席してくれるのではないかとも思う。いや逆かもしれない。尊敬や尊重が先になければ、その気持ちの正体は「好き」ではないのかもしれない。結局のところ、どんな気持ちを「好き」と呼ぶかは、人それぞれの部分もあるだろう。
 この映画は「身の丈に合った生活」という言葉も思い出させた。自分の身の丈をどう捉えるかも、自分次第ではある。

 
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キッチン (吉本ばなな)

 図書館に行く時間が取れず、少ない手持ちの文庫本の中から、吉本ばななの「キッチン」を選んで読んだ。20年以上前に購入した本で、その当時一度読んだきりではないかと思うのだが、読み始めるとまるで昨日読み終えたばかりかのように、次々と既知の文章が現れて、驚いた。たとえこの本が好きだったとしても、こんなにはっきり覚えているものだろうかと。若い時に受けた印象というのは、それだけ根深いということか、それとも忘れているだけで実は何度か繰り返し読んでいたからか、またはこの作家の文体によるものなのか。この三つ目はたった今思い浮かんだのだけれど、そんな気がする。文体か何か、この作品によるものかもしれない。
 この本の文章は、なんだかすぐ目の前で語られている感じがするのだ。言い換えれば語り手と、読み手である自分の距離が、とても近い。
 そういえば解説に、語り手と読み手についての件があったなと気になって、今確かめたので抜粋する。
 [吉本ばななの小説は、あらゆる点でこれまでの小説の文章の常識を超えている。(中略) 随所で語り手としての「私」が、突然、「です」「ます」体で読者に話しかけてくる。最初は何だと読者は思う。しかし読んでいるうちにそれに慣れてくるだけでなく、ふつうの小説では味わえない、作品や人物との親密で快いコミュニケーションの体験を味わう。語り手の「私」は、作中人物の「私」と読者の間に立って、(中略)読者に親しく話しかけ、物語と読者の間をうまくつないでくれるのだ。] 
 だから、近くに感じた、他の小説とは違う繋がり方を、読み手である私自身がした、ということか。
 小説の解説は、読む必要のないもののように普段感じている。その作品を自分なりに解釈して自分なりに味わえればそれで満足だから。でも、そこに解説があれば読んでしまうのだが。 
 この本は解説まで含めて、読者に対しての立ち位置、のようなものが、他の小説とは違うのかもしれない。
 
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キッチン (福武文庫)



ナミヤ雑貨店の奇蹟

 2017年公開の映画「ナミヤ雑貨店の奇蹟 」を観た。 
 この作品では手紙が大切なモチーフになっていて、32年という時空を越えて手紙のやり取りが行われる。
 そして、そのやり取りには2つのパターンがあり、過去から来た悩み相談の手紙に対して、その32年後を生きる若者が、相談者にとっての未来をある程度知った上でアドバイスを与える、という場合がひとつ。もうひとつは、それまで悩み相談に答えてきた店主が、死の間際に、相談者たちのその後の人生について書かれた未来からの手紙を受けとる、というものだ。
 前者にはどこかSFの匂いを感じるのに対して、後者にはノスタルジックな印象が残った。途中、人の運命なんて簡単に変わるものではない、というようなことを主人公の一人が、口にする。確かに、手紙が人の運命を左右することはないかもしれないけれど、手紙が人の感情を左右することはきっとあるだろう。
 ふと気づいたのだが、学校行事などで、未来の自分に手紙を書く、ということはあっても、過去の自分に手紙を書くという機会はないように思う。過去を振り返るより未来について考える方が前向きに思えるかもしれないけれど、前向きに生きるためには、自を信じる気持ちが必要だし、それを持つためには過去の自分を肯定することが必要な気がする。
 脈絡のない文章になったが、こ映画は、東野圭吾の小説が原作となっている。東野圭吾作品の映画といえば、「容疑者Xの献身」が忘れられない。世の中に傑作と呼ばれる作品は幾つもあるけれど、観る側一人ひとりにとっての傑作は、そう多くはないだろう。とはいえ映画を楽しむ者にとっては、傑作も秀作も大作も、みな愛すべき作品である。

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たった一人のオリンピック (山際淳司) ~NHKラジオ文芸館~

 最近は落ち着いて本を読む時間が取れなかったこともあり、今夜のNHKラジオの、「ラジオ文芸館」を楽しみにしていた。
 読まれたのは山際淳司作「たった一人のオリンピック」 
 最初に、この作品がノンフィクションであることが告げられた。つまり実話で、タイトル通り、たったひとりでオリンピックへの出場を目指した若者の話だと知り、冒頭から全身を耳にして聞き入った。たったひとりでオリンピックを目指したというのだから、この若者がとてつもなく熱い人かというと、そうでもないような、どこか冷めた目で自分の人生を見ているような印象を受けた。
 名のある進学校で東大を目指して二浪し、三年目も東大には合格せず入った私大で留年しそうになったとき、彼はオリンピックで金メダルを取ろうと思い付くのだから、もともとは大学受験を失敗したという挫折から、金メダルへの挑戦が生まれたのだろう。人生を変えたいと強く思うのは、自分自身に対して「こんなはずではなかった」と、どうしようもなく感じるときなのではないかと思う。「周りの人たちは昨日と同じように歩いていて、その中で立ち止まれば、それだけで人は一匹狼だろう」という作者の言葉がなんだか沁みた。たとえ孤立しようと、自分で人生を変えたいと思って行動に移すことは、悪いことではないはずだ。その行動に必要な精神力や冷静さも、この人は存分に持っていたと思える。結果的に5年以上も、オリンピックで戦うための練習を自分ひとりで、コーチにも頼らず続け、予定通り代表にも選ばれたのだから。
 そして、代表として出場するはずだったオリンピックに、日本は不参加を決める。
 ノンフィクションというジャンルに、また、山際淳司という作家にも、にわかに興味が湧いている。


スローカーブを、もう一球 (角川文庫)
江夏の21球 (角川新書)





ふたりの名前 (石田衣良) ~NHKラジオ~

 昨日の深夜のNHKラジオで、石田衣良の短編「ふたりの名前」を聞いた。短編という形態だからこそ、この物語の魅力が際立っているように感じた。
 幾つかの手痛い別れを経験済みの、大人の恋人同士が、自分のものには自分の名前(イニシャル)を書く、というルールのもとに同棲生活を送っている。だから、家の中のあらゆるものに所有者の名前が、つまり彼か彼女のどちらかの名前が記されている。この状態は一見、冷めた関係に見えなくもないけれど、この二人にとっては、お互いに相手を尊重するための、相手との距離の取り方なのだ。恋人でも夫婦でも、どんなに仲のいい親友でも、相手は他者である。他者である以上、自分との距離は存在する。相手を理解することと、距離を縮めることは同義ではないだろう。それに相手との適切な距離は、その時々によっていく通りにも変化する。
 この物語の主人公二人は、そうした変化の中で、自分たちが決めたルールが通用しない状況に出会い、それまでの殻を破ったのだと思う。
 人と人のつながりや、相手に対する思いは理屈ではなく、言葉で表すことも難しい。目にもみえず、どうにも言い表せないようなことを、この短編は結末で伝えていた。


*「ふたりの名前」は「1ポンドの悲しみ」に収録されています。
1ポンドの悲しみ