映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

東京ウィンドオーケストラ

坂下雄一郎監督の映画「東京ウィンドオーケストラ」を観た。
あらすじを読んで、ドタバタのコメディを期待していたけれど、ドタバタ劇というほど忙しい感じはなく、どちらかというと呑気な雰囲気さえ漂っていたように思うが、それは舞台となった屋久島の、雄大な自然のせいだろうか。
 カルチャースクールで楽器演奏を練習しているだけの社会人10人が、日本一有名なプロの吹奏楽団と間違われて屋久島に招待され、間違って招待されたのだとは気づかないまま現地での時間が始まってしまう。招待した方もされた方も、そこに「間違い」があることを知らないうちはどちらも善意なのだ。自分の仮定、招待した方はプロの楽団を呼んでいるという仮定、招待された方はカルチャースクールの楽団として来ているという仮定を、当然のものとして行動するのが当然なわけで、どちらにも非はない。けれど間違いがある以上は「しっくりこない」「何か変だ」「これはおかしい」となるわけで、結局は間違いに気づく時がくる。言い換えれば真実を知るわけで、知ってしまうともう善意の時には戻れない。お互いに、相手が間違いの原因を作ったかのように責め合ったりしてしまう。俯瞰すれば、どちらが悪いと目くじらをたてるほどのこともなく、お互いに思い違いや思い込みがあっだだけのことなのだ。
 これは人生においてよくあることなのかもしれない、と思った。些細な思い込みや行き違いはそれこそ年中あるものだし、本来あってはならないような取り返しのつかない思い込みや行き違いだって意外と多いのかもしれない。いや、そんな大きな間違いは多くあってほしくないけれと、それでも、間違って人の命を奪ってしまったというような場合でない限り、始まりが善意てあるならば、「仕方ないよね」「まさかそうとは気づかなかったよね」と諦めて、それまでの時間を否定せずに、「そういうこともある」「それもまた人生」と認めていいに違いない。間違ったからこそ生まれた何かが存在するならなおのことだろう。
 実は思い込んでいただけのことを、思い込みだと気づかずに一生を終えることだってあるのだろう。それを滑稽と思うのは他者としての価値観であり、当人が最後まで思い込んでいたなら、当人にとっては紛れもなくそれが真実なのだ。
 この映画を借りたのは、笑えそう、と思ったからだった。声をあげて笑うようなことはなかったが、楽しめたし、やけに前向きな気持ちにさせられ、爽快感が残った。 
      
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