映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

マドンナ (奥田英朗)

 奥田英朗の短編集「マドンナ」を読んだ。
 どの話も中間管理職の40代サラリーマンが主人公で、どの話も面白かった。
 表題作「マドンナ」の中で、何というか、考えさせられた箇所がある。夫婦が言い合いになり、妻が夫に「この独裁者、弱いものいじめ、能力主義者」と畳み掛ける場面だ。夫は「最初の二つはともかく、能力主義者で何が悪い」と言い返す。私も一瞬その夫の言葉に頷きそうになりながら、先を読んだ。妻はこう続ける。「能力がない奴は家で雑巾がけしてろ、外で働くのはおれたち有能な人間だ、そうやって決めつけるのが能力主義者」「やさしくないのよ。思いやりがないのよ。自分がもしも無能な男だったらどんな人生を送ってただろう、なんて想像したこともないのよ」
 妻のこの言葉に、私はオバケのQ太郎を思い出した。と言っても実際は、以前ラジオの深夜番組で、誰かがオバケのQ太郎について話していたことを思い出したのだ。その人はオバケのQ太郎のことを、何か仕事をするわけでもないし、特に誰かの役に立っているようでもなく、何かやっても失敗ばかりなのに、それならいない方がいいかというとそうでもないのだ、と言っていた。
 勉強でもスポーツでも仕事でも、うまくこなせる人、成績のいい人を有能とみなし、その反対の人を無能と捉え、さらには有能な人の方が価値があると考えるのが能力主義者だとすると、能力主義者は弱いものいじめの範疇にあるような気がしてくる。
 しかし、適材適所という言葉もあって、その人の能力に応じた場所に人員を配置するというのが能力主義なら、これは弱いものいじめにはならないような気がするが、どうなのだろう。その人の能力を誰がどう判断するか、が問題になりそうでもある。
 他者と引き比べるから、有能と無能の区別が生まれるのだろう。オバケのQ太郎には、失敗してもすぐ立ち直る能力や、友達のことを自分のことのように感じる能力があるし、誰だっていろんな能力を備えている。などと言うと、モノは言い様、ということになるのだろうか。
 なんだか「能力」という言葉が、魔物のように思えてくる。

マドンナ

マドンナ