映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

神様 (川上弘美)

 川上弘美の短編集「神様」を文庫本で読んだ。
 何年も前に、作家の保坂和志氏が「川上弘美の真鶴を読め」と、どこかで発言していたのを見て、真鶴をはじめ、彼女の作品ばかりをある時期読み続けたことがある。何作読んだかは覚えていないけれど、「神様」は今回初めて手に取った。
 久しぶりの川上作品だったが、独特の世界観というか作風というのか、彼女の紡ぐお話の中に、安心して心地よく身を任せることができた。読み終えたときは、なぜだか「かなわんなぁ」という感想がひとりでに漏れ、上から目線とも取れるような言葉に自分で驚きつつ、なんだか笑ってしまった。何がどうかなわないのかなどということは言語化できず、ただ紛れもなく素直な感想だったのだ。
 あとがきを読んで、「神様」がデビュー作だったと知った。川上弘美は最初から川上弘美だったのだ、と言えば、これもまたエラソーな感想だろうか。
 手元に置いて、何度でも読みたい本である。


神様

神様


キツツキと雨

 2012年公開の映画「キツツキと雨」を観た。主演は役所広司小栗旬。 
 映画を撮るなどということは、一般人にとっては間違いなく非日常だけれど、映画監督や映画制作を仕事にしている人にとっては日常でもあるだろう。誰かの日常がほかの誰かにとっては非日常になる、というのは当たり前のことで、人が皆唯一無二の人生を送るのは、それぞれに違う日常を過ごすからなのだと改めて感じる。そして、この映画の中の克彦さん(役所広司)と浩一(小栗旬)は、それまで全く別の世界、別の日常を生きていたのだけれど、偶然知り合い、映画制作という同じ世界を共有することで、お互いに相手を通して新しい自分を見つけ出したようだった。
 出会いによって、或いは経験によって、人は成長したり変わったり、物の見方や考え方が豊かになったりすることがあるのだろうけれど、それはもしかすると、自分でも気づかずにいた自分の一面に気づく、ということなのかもしれない。
 

キツツキと雨 通常版 [DVD]

キツツキと雨 通常版 [DVD]

  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2012/07/20
  • メディア: DVD


紙婚式 (山本文緒)

 山本文緒の短編集「紙婚式」を読んだ。
 初出は22年前だけれど、これを読む限り、結婚生活が夫や妻にもたらす変化というのは、時代によらず、ある程度一貫性がありそうだ。いや、結婚生活が夫や妻に変化をもたらすのではなく、共に暮らすことによって、もともとあった二人の間の齟齬にお互いが気づくたけなのかもしれないけれど。
 この本には8編の短編が収められていて、それぞれに全く無関係の8組の夫婦が登場する。どの夫婦も一見普通の夫婦なのだが、どの夫婦も当人にしかわからない感情と事情を抱えている。つまりは、普通なんてあってないようなものなのだ。と、常々感じていることが、自分の手の中で具現化されている感覚を味わった直後に、この本の解説の中にこんな文章を見つけた。
 ❮普通の人や平凡な生活を描きながら「普通の人」や「平凡な生活」など何の実態もないのだと暴いてみせる。恐怖と共感で、ページをめくらずにはいられなくさせる。❯なるほど、そういうことかとやけに納得しながら読み進めると、少し先にはこんな文章が。
 ❮‐‐夫は既に私の一部である。他人ではないので会っても淋しさは紛れない。淋しさを紛らわしてくれるのは「他人」であることを私は知った。‐‐ この文章に私はぶちのめされた。❯
 同感。私もこの文章にはかなりの衝撃を受けました。解説とは、野暮なものであるような気がしていたけれど、読後の感想を友人と語り合っているかのような感触を与えてくれることもあるのだな、と初めて思った。

紙婚式

紙婚式





 



アヒルと鴨のコインロッカー

   2007年公開の映画「アヒルと鴨のコインロッカー」を観た。原作は伊坂幸太郎。   
 巧妙で根の深い仕掛けが、それも物語全体をひっくり返すような大仕掛けがあって、最後にはすべて腑に落ちるけれど、なんて悲しい話なのだろうと思った。悲しみの底に、何かふわふわとした怖さのようなものも、わずかだけれど感じた。そして、悲しい物語だったのだと種明かしされても、冒頭から続いていたコミカルさが消えることはなく、かえってそのコミカルさが作品を支えているような印象さえ残った。

 同時に、私は日々起こる出来事の、ほんの一面しか普段は見ていないのではないかと思わされた。身の回りで起こるのは些細な出来事だとしても、物事にはきっといろいろな側面がある。その事を大前提として常に忘れないでいられたら、人生が生きやすくなるような気がする。日頃、私は視野が狭いなと感じてきたけれど、物事の多面性を意識できていなかった、ということかもしれない。
 主演の濱田岳瑛太は、はまり役だったように思う。いや、はまり役だと思わせるのは、役者の力量なのだろう。二人の不思議な魅力が色濃く伝わってくる映画だった。
 
アヒルと鴨のコインロッカー [DVD]

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

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アカペラ (山本文緒)

 山本文緒の「アカペラ」を読んだ。
 表題作を含む中編三作品が収められていて、どれもとても面白かった。
 小説を読んだ後、感想をきちんと言葉で表現するのはなかなか難しい。「面白かった」だけで伝わることがあるとしたら、この人は退屈せずに楽しく読んだのだな、という程度のことだろう。 まぁ、たった一言でそれだけ伝われば充分なのかもしれない。
 私は本当に好きな作品に出会うと、それについての感想や何かをあれこれ述べるのを控えたくなる。そして、そういう人は案外多いのではないかと勝手に思っている。好きな作品について、なぜ詳しく語りたくないのかを考えると、以前、信頼していた読書好きの友達に「最近は誰それを読んでいる」と、話したとき、軽く笑いながら「私はその人は読まない」と切り捨てられたことがきっかけのような気もするし、もともと、宝物は人に見せてはいけない、誰かに見られたらそれだけで傷がつく、と思って生きてきたからのような気もする。
 人生はままならず、ままならなさも人それぞれだけれど、だからこそ小説を求めたりするのだろうか、などと今回は考えた。
 この本の中の三作は、私には、今どきの言い方をすれば、ツボだったのかもしれない。特に三作目「ネロリ」の中には、なぜかはわからないが、心を鷲掴みにされた二行があった。10年以上も前に書かれた物語だけれど、出会えて良かった。

アカペラ

アカペラ



 


 2018年公開のアメリカ映画「ワンダー 君は太陽」を観た。
 子どもが中心の物語なのだけれど、子どもたちに起こる出来事やその生活を通して、大人、子どもという言葉ではくくれない「人」そのものが描かれていたように思う。
 日頃、人はみなそれぞれで、一人一人は本当に違うと感じているけれど、それは物の考え方、つまり頭の中のことを指していたのであって、生き物としての体の構造はこんなにも同じだったのだと気づかされた。体も心も同じ部分と違う部分の両方があるから、他者との共存が可能になったり有意義になったりするのだろう。
 この物語には何人かの主人公が登場した。皆、素直できれいな心の持ち主で、孤独や悲しみの中にあっても自分を甘やかさず、逃げずに乗り越えていく姿が凛として見えて、胸を打たれた。
 一方で「人生で最も大切な勇気は逃げる勇気だ」という言葉に私は最大限共感するけれど、甘えが原因で逃げたなら、結局は自分を追い詰めることになるのだろうと感じた。
 

ワンダー 君は太陽 [DVD]

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団欒 (乃南アサ)

 乃南アサ著の短編集「団欒」を読んだ。
 面白かった。
 いろいろな家族がいて、家族ごとにいろいろな事件が起こる。故意の殺人や不慮の殺人も起こるのだが、それに関わる人々の言動がいかにも人間臭く、あり得ないと思えるほど身勝手な家族もいて、所詮人間なんて勝手な生き物、誰だって自分が一番大切なのだということを、痛切に、というよりは痛快に感じさせてくれるような楽しい作品だった。
 人は本当に皆それぞれで、人の数だけ「普通」があり人の数だけ「常識」がある、と常日頃思っているけれど、家族という単位にもそれは当てはまりそうだ。外の人には理解されない習慣や価値観も家族の中では当たり前にまかり通っていて、外の人には理解されないのだということに気づきもしなかったりする。ならば、家族同士の価値観は似通っていて、容易にわかりあえるかというと、そう単純な話でもなさそうだ。おそらくは家族だからこそ「期待」という名の甘えが生じやすいのかもしれない。


団欒(新潮文庫)

団欒(新潮文庫)


 


三度目の殺人

 2017年公開の是枝裕和監督作品、「三度目の殺人」を観た。
 タイトルに「殺人」とあるように、殺人事件を中心とした話で、是枝監督の他の作品とは少し毛色が違うと言えば言えそうにも思う。
 けれどある意味では「そして父になる」や「海よりもまだ深く」に描かれていたもの、それらの作品を通して伝わってきた何かと同様のものを、鑑賞後には感じとっていた気がする。おそらくそれは、事実、現実、真実といった言葉のどれにも当てはまらない人間の心情、なのではないかと思う。
 人は本当に一人一人違って、稀には「こんな人がいたのか」と目を見開きたくなるような相手もいるに違いない。自分とすっかり同じ価値観の相手など見つかるものではないのだろうけれど、それでも共感や共有や共存を望んで、それを可能にしてくれる誰かを、知らず知らず追い求めるのが人間なのかもしれない。
 もちろん、人は一人一人違って、いろいろな人間がいるのだから、そんなものを追い求めない人がいたっておかしくないのだけれど。



マドンナ (奥田英朗)

 奥田英朗の短編集「マドンナ」を読んだ。
 どの話も中間管理職の40代サラリーマンが主人公で、どの話も面白かった。
 表題作「マドンナ」の中で、何というか、考えさせられた箇所がある。夫婦が言い合いになり、妻が夫に「この独裁者、弱いものいじめ、能力主義者」と畳み掛ける場面だ。夫は「最初の二つはともかく、能力主義者で何が悪い」と言い返す。私も一瞬その夫の言葉に頷きそうになりながら、先を読んだ。妻はこう続ける。「能力がない奴は家で雑巾がけしてろ、外で働くのはおれたち有能な人間だ、そうやって決めつけるのが能力主義者」「やさしくないのよ。思いやりがないのよ。自分がもしも無能な男だったらどんな人生を送ってただろう、なんて想像したこともないのよ」
 妻のこの言葉に、私はオバケのQ太郎を思い出した。と言っても実際は、以前ラジオの深夜番組で、誰かがオバケのQ太郎について話していたことを思い出したのだ。その人はオバケのQ太郎のことを、何か仕事をするわけでもないし、特に誰かの役に立っているようでもなく、何かやっても失敗ばかりなのに、それならいない方がいいかというとそうでもないのだ、と言っていた。
 勉強でもスポーツでも仕事でも、うまくこなせる人、成績のいい人を有能とみなし、その反対の人を無能と捉え、さらには有能な人の方が価値があると考えるのが能力主義者だとすると、能力主義者は弱いものいじめの範疇にあるような気がしてくる。
 しかし、適材適所という言葉もあって、その人の能力に応じた場所に人員を配置するというのが能力主義なら、これは弱いものいじめにはならないような気がするが、どうなのだろう。その人の能力を誰がどう判断するか、が問題になりそうでもある。
 他者と引き比べるから、有能と無能の区別が生まれるのだろう。オバケのQ太郎には、失敗してもすぐ立ち直る能力や、友達のことを自分のことのように感じる能力があるし、誰だっていろんな能力を備えている。などと言うと、モノは言い様、ということになるのだろうか。
 なんだか「能力」という言葉が、魔物のように思えてくる。

マドンナ

マドンナ




運動靴と赤い金魚

 1997年のイラン映画「運動靴と赤い金魚」を観た。
 ツタヤでどれを観ようかとDVDをランダムに手に取っては棚に戻していたとき、ふと見ると、ジャケットに「隠れた名作」とあり、気になって借りてきた。イラン映画は初めてで、その意味での好奇心もあったように思う。
 描かれているのは一般庶民の生活で、主人公は子どもたちだった。兄が一足しかない妹の靴をなくしてしまい、これも一足しかない兄のボロボロの運動靴を二人で交代で使うことになる。親に言えば叱られると考え、このことは兄妹二人の秘密だ。その後、なくした靴が別の誰かに履かれていることを知ったときも、賞品の靴を狙って兄がマラソン大会に出たときも、それらのことは兄妹二人の秘密となる。靴をなくしたこと以外は、秘密にしようと約束したわけではないけれど、秘密を共有することが、この兄妹にとっては支え合うことになっていた気がする。世間一般に置き換えて考えると、秘密の内容によっては共有することで支え合うのではなく、足の引っ張り合いとか、何か良くないことを引き起こす場合もありそうで、世の中のすべての秘密が、人と人を温かくつなぐものならいいのに、と思ったりもする。子どもじみた発言かもしれないけれど、大人も子どもも心は自由なはずで、心の中では何を願ってもいいに違いない。
 この映画の最後に出てくる赤い金魚や、兄妹が息を吹きかけて飛ばすシャボン玉は、見ていると、そこにずっといてほしい、あってほしいと思えるものだった。そして、ただそこにいるだけでいい、あるだけでいい、と思える人や物の存在が、生活を、もっと言えば人生を、豊かにするのだろうと感じた。
 

運動靴と赤い金魚 [DVD]

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桜雨 (坂東眞砂子)

  坂東眞砂子著「桜雨」を読んだ。
 文庫のカバーに、この作品で1996年の島清恋愛文学賞授賞とある。その翌年には別の作品で直木賞を授賞した作家だ。
 「桜雨」は、一言で言えば男女の三角関係を綴った物語だった。とはいえ、一人の画家を女性二人が奪い合うのは物語の後半で、この話は、親戚を頼って東京に出てきた一人の田舎娘の半生を描いたものとも言えると思う。
 三角関係の舞台は戦時中の東京だが、冒頭の場面は現代の巣鴨で、その後、一枚の絵の登場によって、その絵が描かれた数十年前と現代との間を、物語は何度も行ったり来たりする。それでも決して混乱することなく、かえって時の蓄積や時代というものが持つ計り知れない力を、否応なく感じさせられた。
 
 時間くらいつかみ所のないものも無いように思う。実体はないようでいて、なによりも確実に存在している。形有るものはいつか必ず消えてなくなるけれど、時間というものは、いろいろな物に姿を映しながら、どこかに積み重なっていく。積み重なっていくのにそのための空間を必要とはしない。考えてみれば、記憶や思い出もどんなに増えようと積み重ねるための空間はいらないわけで、だからこそ誰もが自分の中に果てのない宇宙を持つことが可能なのだろう。
 この小説は構成も巧みだったけれど、細かな描写や内容そのものに引き込まれる部分も多かった。読み終わって思ったのは、人は自分以外の誰かの人生を生きることはできない、ということだ。当たり前のことだけれど。誰もが唯一無二の自分の人生を生きている。どんな人生であれ、この人生は自分にしか生きられないのだ、と思うと、たとえ不本意な日々が含まれていようと、それはそれで受け入れればいいような気がしてくる。

桜雨 (集英社文庫)

桜雨 (集英社文庫)




オー!ファーザー

 2014年公開の映画「オー!ファーザー」を観た。原作は伊坂幸太郎、監督、藤井道人、主演、岡田将生
 DVDのジャケットを読んで、父親が4人いる高校生が主人公と知り、面白そうだなと思って
借りてきた。
 普段はサスペンスやミステリーより、家族や人生を描いたようなドラマかコメディを選ぶのだけれど、今回はなんとなくストーリー展開を楽しめそうなものを求めていて、主人公に父親が4人いるという滅多にない設定と、「事件に巻き込まれていく」という紹介文に引かれたのだった。
 父親が4人いて、全員と同居しているなんて、一体どんなドタバタ劇かと思いきや、仕事やその他でいつも不在の母親に代わり、4人の父親たちが抜群のチームワークで一人息子を温かく見守りながら、その生活を支える様子はとても穏やかなものだった。町の黒幕が登場したり、人が死んだり、監禁されたり、事件は確かに起こって主人公もその中心に引き込まれていくし、事件そのものがつまらなかったわけではないのだけれど、事件の真相や解決への興味以上に、父親と息子の関係性に注目して見ていた気がする。(結局、そういう方向から映画をみるのが私の習性なのだろう)
  4人の父親がいて、そのうちの誰か一人とは血が繋がっているなら、それが誰なのか知りたくはないのだろうか、と最初は不思議に思った。でも産まれたときから4人の父親に囲まれて育ち、それが当然の暮らしなら、ある日突然、血が繋がっている父親は一人だけだと言われても、その方がピンと来ないのかもしれない。小さな子どもにとっては自分の生活が世界のすべてだ。父親の4人いる生活を「ずっとそれが普通だった」と、主人公が口にする場面があったのも無理はない。よく思うのだけれど、人の数だけ「普通」がある。
 そして、家族に対して他人には持たない特別な感情を持つのが普通だとしたら、それは血の繋がりのせいばかりではなく、良くも悪くも共に過ごした時間によるのかもしれない、と思ったりした。




ダージリン急行

 2008年に日本公開のアメリカ映画「ダージリン急行」を観た。
 ツタヤで手に取ったとき、DVDのジャケットに、~三兄弟がインドを旅する~ とあったので、一瞬インド映画かと思ったけれど、インドが舞台のアメリカ映画だった。
 疎遠になっていた三兄弟が、長男の呼びかけにより遠くで暮らす母親を訪ねる旅に出る、というのが粗筋といえば粗筋なのだけれど、「母親を訪ねる旅」という文言から予想されがちな郷愁のようなものは、ほとんど感じられなかった。多分、郷愁や家族のしがらみや絆のようなものは、くすりと笑える場面に変えられていて、そがとても良かったように思う。
 三兄弟それぞれの個性がぶつかり合い、ぶつかりっぱなしでも兄弟だから許せたり、許せなくても旅が続いたり、結局許すも許さないもなかったり、目の前で起こるハプニングには三人で対応していたりする。そのことが妙に楽しく気持ちのいい映画だった。
 そして、親子や兄弟であっても、自分以外の誰かの人生に深く関われる時間は、そう長くはないのだと気づかされた。親子も兄弟も、それぞれに生活があれば、運命共同体ではなくなる。そういう意味では夫婦とか共同経営者とかの方が運命共同体に近く、そうした相手がいるというのは、自分の中の宇宙が二倍にも三倍にも広がることなのかもしれない。運命を、たとえ一部であっても共有する以上、その相手をある程度、或いは丸ごと受け入れなければならないだろうし、自分以外の誰かを受け入れるということは、自分の世界が広がるということなのだろうから。

時雨のあと (藤沢周平)

 藤沢周平の「時雨のあと」を読んだ。 
 以前、保坂和志に傾倒して彼の小説ばかり読んでいた頃に、保坂氏の「藤沢周平を読め」という言葉をどこかで見たか聞いたかしたことがあり、それ以来ずっと気になっている作家だった。とはいえ今回手に取ってみて初めて、時代小説を書く作家だと知った。
 私にとって時代小説は、とても心地よく読める本だ。おそらくは単純に、言葉遣いや、そのリズムが、現代のそれより丁寧な響きをもって感じられ、丁寧さは穏やかさに繋がり、穏やかさが心地よさを運んでくるものと思われる。個人的には、小説にハラハラドキドキするような展開をあまり求めておらず、どちらかというと人情味とか、人の生き方に触れたくて読んでいるようなところがあるので、その点でも時代小説には満たされやすいのかもしれない。
 この「時雨のあと」に収録された短編は、先の展開や結末が気になるものも多かった。静かで落ち着いた描写をたどりながら、そうした流れに身を任せるように読み進めていく中で、登場人物たちの心意気や価値観、人生を存分に味わうことができ、最後には何かが自分の中に深く沈み込んでいくような感覚があった。
 贔屓の作家がまたひとり、増えたのかもしれない。

時雨のあと

時雨のあと



阪急電車

 2011年公開の三宅喜重監督作品「阪急電車」を観た。
 冒頭に主人公のモノローグで「人は皆、それぞれの思いを抱えて生きている」というようなことが語られる。その言葉には聞き終わらないうちから、二度三度と頷いた。誰にだって不安や不満や悩み、そういうものの一つや二つ、あるいは三つや四つ、あるに違いない。でも、大抵の不安や不満や悩みには原因があって、原因があるから解決への道も現れるように思える。一つ消えればまた別の悩みが浮上してくるのかもしれないが。
 本当に途方に暮れるのは、原因がわからないときや、原因に自分が関われないとき、気がついたら目の前に受け入れがたい事実があったとき、そういうときではないだろうか。虐待する親の下で暮らしている子どもなとは、それだと思う。虐待ではなくても、自分の力ではどうにもならない現実に打ちのめされることもあるだろう。そうしたときの思いは不安や不満、悩みというより、悲しみや嘆きと呼ぶ方かふさわしいのかもしれないし、どうにも名付けられない「思い」かもしれない。そして、たとえ悲しみや嘆きの中にあっても、他のどんな思いの中にあっても、人は生きていかなければならないものらしい。
 喜びや希望、信頼と呼べるような「思い」も当然あって、人々はそれぞれに様々な思いを抱えているし、人ひとりの中に、色々な思いが存在してもいる。
 一つだけはっきりしているのは、自分の中のそれらの思いに大小はあっても、他者のものと大きさや重さを比べることはできないということだ。おそらくは、これができないから、誰もが孤独なのたろう。
 孤独な者同士だからこそ、ふれあったり寄り添ったり、分かちあったりできるのかもしれない。 
 この映画は、そうしたふれあいを見せてくれた気がする。

阪急電車 片道15分の奇跡 [DVD]

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