映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

ある男(平野啓一郎)

 平野啓一郎著「ある男」を読んだ。
 単行本の帯に
「愛したはずの夫はまったくの別人だった」とあって、読む前は「どういうことだろう 。面白そうだな」と、あまり深く考えずに思っていた。そして読み終わった 今、 別人という言葉が、なんとなくしっくりこない。別人も何も、愛した夫は、その愛した夫 ひとりしかいない。戸籍上の名前が 実は違ったことを「別人」としているけれど、どんなに誰かになりすまそうとしても、人はやっぱり その人自身でしかないのではないだろうか。という気がした。
 インターネットを経由して相手と会うことなく交流する場合は多少違ってくるかもしれないが、目の前に 実体があって、その人と言葉を交わし 時間を共に過ごしていたら、たとえ 過去を偽られていたとしても、戸籍上の名前が違ったとしても、目の前のその人と過ごした時間が偽物だったということにはならないように思う。
 この物語では夫となったその人の家族と連絡を取ったために、夫の戸籍上の名前と実体が一致していないことが問題になってしまう。戸籍は家族のつながりを示すものとしてはとても重大で大切なものであるけれど、家族と切り離して 個人をただ一人の人として認める場合、大した意味を持たないのではないだろうか。
 そう考えると、人の名前も過去も、その人自身がその人自身であることを示すための、ほんのきっかけのようなものに過ぎない、という気がしてくる。
 私はいつの頃からか、「言葉の使い方には 人間が出る」と思うようになった。その人がその人自身であることを判断する基準のようなものは、その人に関わる 相手次第で違ってくるのかもしれない。

ある男 (コルク)
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正欲 (朝井リョウ)

 朝井リョウ著「正欲」を読んだ。
 深く静かな衝撃を受け、考えさせられた。
 この社会にとって想定内のマイノリティと想定外のマイノリティがある、ということは、これまでほとんど意識していなかった。
 「好み」という言葉があるけれど、好きだと思う気持ちは理由はなくても成立するわけで(と私は思う)、「好きだから好き」という論理を正当なものと受け取るならば、「嫌悪感」にも理由はいらないことになる。実際「嫌なものは嫌」と言われたら返す言葉はなくなり、相手の「嫌だ」という気持ちを受け入れるしかない。と、私は思うが、そんな私の想定の外にいる人がいてもおかしくはなく、そのような人にとっては「これを嫌だなんて考えられない、どうかしている」となるのだろう。すると同様に「これが好きだなんてどうかしている」となることもあり得ることになる。人の好みを他者がとやかく言うことほど無意味なことはないように思うけれど、人を殺すことが大好きで殺さずにはいられない、という人がいたら、とやかく言うどころの話ではなくなる。人殺しの例は極端だけれど、どこまでを「好み」の範疇として捉えるか、またはどこまでを「よくあること」として捉えるかという点が、既に人それぞれであるのに、それぞれであるからこそ、大多数が描く輪郭のようなものが「常識」と呼ばれてしまうのかもしれない。
 誰もが「他者を理解できないことなど当たり前」という前提に立っていれば、多様性を尊重するのは意外と容易になりはしないだろうか。そして、それが本当に尊重される社会なら、多様性という言葉は不要になるのかもしれない。
 

星を掬う (町田そのこ)

 町田そのこ著「星を救う」を読んだ。

 親子や家族の物語が、人生の物語でもあるのは、一人一人の生き方を描かなければ親子や家族の関係を描き出すことはできないからなのだろう。

 「母親」という存在も、母親である前にひとりの人間なのだ、ということがこの本には描かれていた。
 これは当然のことのように思えるけれど、一方で「子どもを産んだ女性は母親であることを最優先にすべき」というような考え方もまた、当たり前のように有りはしないだろうか。考え方と呼べるほど大袈裟なものでなく、そのような雰囲気がある、と言った方がいいかもしれない。そして、考え方であれば、それを選ぶかどうかは自分次第のところがあるが、雰囲気というものは選ぶ以前にそこにあったりする。

 もちろん子どもは、食べるものも着るものも全て親に与えてもらわなければ生きていけない。子どもにとって、子どもである自分のことを最優先に考えてもらうことは、時として必要なことだろう。
 しかし、どのような態度が「子どもを最優先にしている」といえるのか、答えはないように思う。言い換えれば、親の数だけ答えがあるのかもしれない。子どもが歓迎できる答えを持つ親もいれば、あまり歓迎されない答えを持つ親もいるだろうし、子どもの受けとめ方も一人一人違うはずだ。さらに言えば、親から最優先どころか少しも優先してもらえないことが日常となる子どもも世の中にはいるけれど、必ずしもそれが、その子の不利益になるとは言えない気がする。無責任にこんなことを述べるのは、親から最優先に扱われたことが裏目に出る場合もあるだろうと思うからなのだが、私の乏しい想像力では確かなことなど言えない。

 明らかなのは、人は、自分以外誰も歩けなかった人生を歩くのだ、ということだろう。


 この本を読んで、自分の人生を愛おしく感じるということが、精いっぱい生きる、ということなのかもしれない、と思った。






パッチギ

 2005年公開の井筒和幸監督作品「パッチギ」を観た。
 話題になっていた公開当時から、いつか観ようと思っていたが、もう17年も経っていたことに驚く。
 舞台は1968年の日本で、主人公は高校生。この映画を観て思い出したことがある。
 いまから30年以上前のことだけれど、高校の同級生に朝鮮人の両親を持つ男子がいた。高校を卒業してから、その彼と私の親友が恋仲になった。私は彼の両親が朝鮮人だということも、彼の名前が日本用に作られたもので、朝鮮人としての本名が他にあるということも、卒業後に親友から聞くまで知らなかった。親友も彼と付き合わなければ、彼を日本人と思ったままだったろう。社会科が苦手だった私は朝鮮と日本の関係やその歴史に疎く、うっすらと「何か良くない関係があった」という漠然とした印象を持っているだけで、それも昔のことと思っていた。だから親友が「このまま彼と付き合い続けても、未来は暗いだろう」というようなことを言ったとき、少し驚いたのだった。
 彼の両親が、息子の結婚相手には朝鮮人を望んでいる、望んでいるというよりはそれが当然だと思っている、という話を彼から聞いたという親友は、今すぐ結婚したいわけではないけれど、いつか別れる前提で付き合っているわけでもないから複雑な気持ちなのだと伏し目がちに語った。彼女は教養と知恵と落ち着きのある、かわいらしくも美しい女性で、人柄も温厚だった。こんなに素敵な女性なのだから、会ってしまえば彼の両親も受け入れてくれるのではないかと私は考えたが、なぜかそれを口にすることはできなかった。軽々しくそんなことを言うべきではないと、どこかで感じていたのだろう。
「パッチギ」を見て、やはり当時の私の考えは浅はかなものだったと思わされた。
 過去の出来事をなかったことにはできないし、国と国の関係というのは一度こじれると根深いものが残る。これは若い頃にはピンとこないことだったが、歳を取るにつれて頷けるようになった。けれど根深いからこそ、丁寧に対処し、両者が明るい未来を共有できるように歩み寄る努力をしてほしいと思う。それをしてくれるだろう政治家や政党を選んで投票する、というのが一個人としてできることであり、国民としての義務でもあるのだと感じる。
 
 社会科が苦手なまま大人になり政治にもあまり興味を持たずにいた私に、この映画は「国民としての義務」を実感させてくれた。改めて映画のもつ力、のようなものを知った気がしている。





望み

2020年公開の堤幸彦監督作品「望み」を観た。
  
 犯罪がストーリーの軸になっている映画はたくさんあり、これまでにいくつか観てきたが、大抵の場合、犯人は誰なのか、犯行はどう展開したか、という点に興味が集中するように思う。或いは、犯罪の意味や動機について考えさせられることもあるけれど、この映画のようなベクトルで観る者を引き付ける作品は、私は初めてだった。
 犯罪を中心に置きながら、この映画のテーマは全く別のところにあり、しかも多角的で奥深いものに思えた。 
 親が子を思う気持ちや夫婦の在り方に正解などなく、誰もが自分なりの答えを自分の正解として掲げるよりほかないのだと示されたような気がする。そして人の感情は、道徳や倫理の枠の中にあろうとなかろうと、そもそも範囲が不確定なその枠に収まっているかどうかが問題なのではなく、その感情にどう向き合うかが、本人にとっても周囲にとっても一番大切な点なのだろう。感情は自分と一体化している場面が多く、その時間が長いと、向き合うという認識を持つことさえ難しいのかもしれないが。




エイプリルフールズ

 2015年4月1日公開の映画「エイプリルフールズ」を観た。
 観終わったとき、やけに充実感があり、登場人物たちのこれからを心から応援したくなるような清々しい気持ちだった。
 タイトルから推測して、コメディかなと勝手に思っていたが、総じて人間ドラマだった。
 今思ったが、人間ドラマの要素のないコメディというのは、単なるおふざけになるのだろうか。「お笑い」と呼ばれるコントや漫才はどうだろう。それらの中にも人生の断片やドラマを感じるものももちろんあるし、一見そうとは分からなくても、人間の習性や人生の局面を下敷きにしたものが多いような気がする。教訓を求めてコメディ映画やお笑いを鑑賞するわけではないけれど、笑いながら、楽しみながら、心の奥底で 「人ってこうだよねー」とか、反対に「こんなことってある?」というような点に、実は一層満足させられているのかもしれない。
 「エイプリルフールズ」の登場人物たちは、大嘘をついている者が多かったが、身を守るための鎧のような嘘ばかりだった。現実は映画ほどうまくいかないとしても、嘘から生まれる真実、というものが絵空事でなく実際にも有りそうに感じた。
 そういえば「一番ついてはいけない嘘は自分につく嘘だ」という言葉を聞いたことがある。
 自分に嘘をつかない生き方をするために、誰かに嘘をつかなければならないことも、ひょっとするとあるのかもしれない。





82年生まれ キム・ジヨン (チョ・ナムジュ)

 チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳「82年生まれ キム・ジヨン」を読んだ。
 読み進めるうちに、あれ、これってノンフィクションだっけ?と一瞬混乱し、解説を見て小説であることを確認してしまった。
 最初から最後まで、共感し通しで読んでいた気がする。この本を、多くの人に読んでほしいという声が上がるのは当然だろうと感じる。
 男女の違いがあるからこそ人類は続いてきたわけで、違うこと自体は残念なことでもなんでもなく、むしろ必要なことなのではないかと考えると、違いを理由に(違いのせいで)どちらかが不当に扱われたり、不快な思いをさせられたりするなんて、理解できないことだと感じる。でもこの本にもある通り、昔は、(割と最近までとも言えるかもしれないが)この「不当」が、不当と思われていなかった時代もあって、「不当」を「不当」であると世の中が認識したことは前進に違いない。問題提起という言葉があるけれど、実は「問題」なのに、誰かがそれを問題として提起しなければ何の対応も改善もないままに、問題の渦中にいる本人たちでさえ「仕方のない事」として、或いは 「そういうものだ」として、やりすごしてしまうかもしれない。そうして放置された問題が、社会の中で歪みとなっていくのなら、やはり問題提起は大切なことだと思う。たとえ解決への道のりが長く険しいものだとしても。また、最初に声を上げるのは勇気がいるとしても。
 男として、女として、こだわりを持って生きることと、性別に囚われて生きることとは全く別の次元の話になるだろう。男も、女も、そのどちらでもない人も、 「違い」に囚われずに生きていけたらいいなと思う。




誰も知らない夜に咲く(桜木紫乃)

 桜木紫乃作「誰も知らない夜に咲く」を読んだ。
少し前に(数ヶ月前だろうか)ラジオ番組の朗読でこの作家の、たしか「冬ひまわり」という短編を聞いた。(冬ヒマワリ、又は冬向日葵、かもしれない)その物語が心にしみて、以前読んだこの作家の「ホテルローヤル」も面白かったなぁと思いだした。

 「誰も知らない夜に咲く」も短編集だが、どれも有りそうで無さそうな、無さそうで有りそうな物語で、おそらく自分の身には起こらないことだし、自分の日常とは別世界の話だったりもするのに、全編を通してなぜか他人事とは思えない感触が残った。それは「感情移入できた」とか「リアリティがある」とか、そういう言葉で説明できるものではない気がしていて、私としてはやはり「他人事とは思えない感触」としか言いようがないものだ。

 より抽象的な表現になるのかもしれないが、別の言い方をすると紫乃さんの作品を読むと、心を湿らされる感じがする。潤うというのとは違い、胸の内側が湿って、ほんの少し重さを増すような、厚みを持つような、そんな感じだ。 この本は何年も前に出たものなので、これ以降の桜木作品も未読のものがあると思うと読むのが楽しみだ。


旅する練習 (乗代雄介)

 乗代雄介著「旅する練習」を読んだ。
 風景描写の多い本だった。タイトルに「旅する」とあるように、目的地までの旅の道程を軸としていて、旅の中で目にする景色が次々と描かれていた。
 そのことと関係があるかどうかはわからないのだか、私にとってこの本は、普段読んでいる他の小説とは少し感触の違う本だった。何が違うのかはっきりとは言えないのだが、感覚的には、普段の読書が舗装された道をスニーカーでスタスタ歩くように進んでいくのに対し、この本は砂利の上を裸足で歩いているような感じがあった。最初の四分の一か五分の一くらいは特にそうだったから、段々に慣れたのかもしれない。では読みにくかったのかというと、そういうことでもない気がする。砂利道はスタスタ歩くには適さず、一歩一歩ふみしめた方が楽しめるということだろうか。しかも裸足の方が砂利を感じることができる。初めは砂利道だったのが、どこからか芝生になり、砂浜や遊歩道なんかも通ったのかもしれない。こんな言い方は、人に感想を伝える言葉としては抽象的で分かりにくい下手な表現かもしれないが、自分の感じたことの覚え書きとしては満足だ。
 旅が描かれているせいか、紀行文のような匂いを時折嗅ぎとっていたが、後半はこの本が小説であることを思い知らされるような展開が畳み掛けてきた。
 読み終えた今、小説というジャンルの幅の広さを教わったようにも感じている。




K との再会 (おろかなチホ)

 今日はちょっといつもと違う投稿をしてみようと思う。

「心淋し川」を読んで、人は皆物語の中を生きているのだと改めて感じたせいか、自分の身に起こったことで、忘れられないことを文章にしてみようと思い立った。とはいえ劇的な出来事でもなんでもないのだが。


 二十五歳のとき、中学時代の友人Kと会う約束をした。彼と最後に会ったのは二十歳のときのクラス会だったが、年に一回程度電話をしていた。中学三年の時のKと私の仲の良さはクラス公認で、授業中によく手紙のやり取りをした。Kは私を誰よりも理解していると私に思わせた最初の他人で、間違いなく私にとって特別な存在だった。

 別々の高校へ進学し、顔を合わせなくなり、忘れた頃に電話をかけるだけになっても、Kが特別であることに変わりはなかった。

 なぜ、会うことになったのか経緯は覚えていない。経緯などなく、どちらかが唐突に「今度会おうか」と言えば、相手に断る理由はなかったのかもしれない。

 当日、私は十分遅刻した。都心ではないが複数の路線が乗り入れているターミナル駅は、師走の忙しさもあって混雑していた。待ち合わせ場所のみどりの窓口付近にKの姿はなかった。私は約束の場所ではなく、そこがよく見える場所に立った。Kのほうから「よう」と声をかけられるより、私が先にKを見つけたかったのだと思う。けれど二十分たってもKは現れなかった。

 その駅のみどりの窓口はかなり広く、周囲にはたくさんの人が立っていた。私は彼らの顔を横目で盗み見ながら十メートルほどの距離を行ったり来たりしてみたが、Kらしい人物はいなかった。私は動くのをやめ、人待ち顔の彼らの列に加わった。そこに立ったまま一時間半が過ぎ、私は帰宅した。携帯電話が普及し始めた頃だったが私は持っていなかった。急用でも出来たのたろうかと考えた。時間通りにKは来ていて、十分も待たずに帰ってしまったのだとはどうしても思えなかった。

 ひと月ほどして私はKに電話をかけた。待ち合わせの日のことを尋ねると「俺、行ったよ」と言った。一時間待ったのだと。仕事帰りでスーツの上に黒いコートを着ていたと聞いて、私は合点した。ネクタイ姿のKなど、思ってもみなかったのだ。もう社会人になっていて会社勤めをしていることも知っていたのに、私が探していたのは最後に見た、学生のような格好のKだった。Kのほうも、私の服装やヘアスタイルを聞くと「それなら見たかも」と言った。改めて会おうとは、どちらも言わなかった。

 あれから随分と長い年月が過ぎたが、あの日会えていたら、人生が違ったのではないかと思うことがある。Kに会い、二、三時間、他愛ない話をして別れ、それきりまた会わなくなっても、その二、三時間が、その後の私の励みとか、指標のようなものになり得たのではないかと思うのは感傷だろうか。おそらくは、感傷などではなく、自分の人生を買い被りたいだけの甘えなのだろう。


 今ではすっかり疎遠になったが、年賀状のやり取りだけは続いている。一往復に二、三年かかったりしながら。


心淋し川 (西條奈加)

 2020年下半期直木賞受賞作品「心淋し川」を読んだ。
 時代小説を読むと、人が人を思う気持ちや人生のままならなさは、いつの時代も変わらずにあって、だからこそ物語が生まれるのだな、と思う。 
 何の変哲もない暮らしの中で、ある日突然、巻き込まれるようにして物語の主人公になってしまうこともあれば、当たり前の日常をただ当たり前に送っているつもりでも、その日々がこそが物語だったりもする。そもそも本人にとっては当たり前のことが、他者から見れば非日常である場合は多いものだ。
 この本は連作短編集で、とある長屋を舞台に、そこに住む人々の誰かが一編ごとに主人公となっている。私が特に胸を突かれたのは「明けぬ里」というタイトルの話だ。現代ではあり得ない状況の物語だけれど、同じくらいやるせない思いというのは、今の世にも存在する気がする。この「現代にはあり得ない状況」にくるまれているからこそ、かえって真っ直ぐに伝わってくるものがあって、それが時代小説の魅力の一つなのだろうと感じた。その意味で、最後に収められている「灰の男」もとても読みごたえがあり、罪が存在することの罪ーとでも言いたくなるようなことーについて考えさせられた。





星の子 (今村夏子)

  今村夏子著の「星の子」を読んだ。
 以前、デビュー作の「こちら、あみ子」や、短編集の「あひる」も読んでいて、ひょっとするとこの作家は誰も書こうとしなかったことを、或いは書こうとしても書けなかったことを、書いているのかもしれない、と感じていた。
 言うまでもないことだけれど、作家たちは「何か」を書いている。もちろん小説や物語を書いているのだけれど、ここで言いたいのはそれらを通して「何か」を書いている、という点だ。その「何か」は言葉で説明できるものではないのだけれど、カテゴライズすることはできる、と思う。たとえば、家族愛とか友情といった枠の中に。いや、この枠組みにつける名前さえ、言葉にできるものではないのかもしれないが、枠自体は確かにあって、私の場合、「枠」が存在しているのだ、ということを今村夏子の作品によって強く意識させられた。というのも、この「星の子」に書かれていた「何か」が、私の知っているどの枠にも収まらなかったからだ。
 どうやらこれまでの私は、小説を読んだあと、その作品に書かれていた「何か」を無意識のうちに分類していたようだ。他の今村夏子作品、「こちら、あみ子」や「あひる」を読んだときのことを思い返すと、これまで触れたことのない「何か」を感じて、どの枠にも入らないからとりあえず「その他」のラベルを貼っておいたのだった、という気がしてくる。そして「星の子」を読んだいま、今村夏子という作家は、私が認識していた枠と枠との隙間にある「何か」について、書いている作家なのだ、と感じている。しかも、そこに隙間があることさえ、はっきりとは気づいていなかったのに、ここにこんな隙間があるんだよと示されてみれば、目から鱗で、隙間の存在に感謝したくなるような隙間なのだ。ニーズを掘り起こすという言葉があるけれど、読み手が(私が)無意識に読みたがっていたものを差し出してくれたのだと思う。
 客観的に見れば、私が隙間だと捉えたものを、最初から枠として持っていた読者もいて、そういう人には「あなた、ずいぶん窮屈な生き方してましたね」と、言われてしまうかもしれない。おそらく「何か」を読む、という行為は、私にとって、窮屈さからの解放につながることなのだろう。


さいはてにて ~やさしい香りと待ちながら~

 2015年公開、永作博美主演の映画「さいはてにて」をみた。
 主人公は行方不明の父親の帰りを待つために、一人小さな漁港の小屋に移り住む。そこで近所に暮らす母子家庭の子どもたちと関わっていくのだが、子どもたちの母親は仕事のためとはいえ不在になりがちだった。こう文字にすると、もの悲しく寂しい物語のようだけれど、そして確かに寂しさも悲しみもそこにはあるのだけれど、それが強調されるわけではなく、それらと同時に存在している人の強さや温かさが描かれた映画だった。
 「悲しみは愛からしか生まれない。悲しみほど愛を生きた証はない」という、誰かの言葉を思い出した。(批評家のw氏だったろうか)
 悲しみも愛もひとつとして同じものはなく様々だろうし、様々なのに比べることはできないわけで、その孤立性こそが個々の悲しみや愛を唯一無二のものにするのだろう、ということも感じる。
 舞台となった能登半島の景色の美しさにも心引かれた。なんというか、これほど透度の高い風景を初めて見た、という気がする。いつか訪れてみたいと思っている。


格闘するものに○ (三浦しをん)

 三浦しをんさんのデビュー作「格闘するものに○」を読んだ。
 言わずと知れた人気作家である。ご本人がラジオのインタビューで語っているのを聞いたのだが、就職活動の際に出版社を受けたのがデビューの発端だとのこと。筆記試験に含まれていた作文の欄で披露した文章が、読んだ人の興味を引いて、何か書いてみませんかと声がかかったという。いかにも、才能が見出だされた瞬間だ。
 才能や素質と呼ばれるものは、確かに存在していると感じる。以前はそれを特別なものと捉えていたけれど、最近では誰もが持つ個性や性質の一つ、という見方もできるなと思う。つまり、世間に注目されたり、認められるような大きな業績を残す才能もあれば、誰にも認められず、何の役にも立たないように見える才能もあることになるわけだけれど。
 さて、この作家の才能はもちろん前者のわけだが、その才能を見出した人の、「才能を見いだす才能」に私は脱帽する。ひょっとしたら大勢に声をかけていて、鳴かず飛ばすの結果に終わる場合の方が多かったのだとしても。 
 
話をこの本に戻すと、主人公は就活中の女子大学生である。冒頭に置かれた短いお話は、しをんさん自身が前述の就職試験で書いたものなのではないかと勘繰りたくなるような流れだ。そうであってもなくても、主人公をとりまく環境や状況や物語の展開は、作家の想像による創造物に違いなく、私にはなんだが、登場人物たちの自分自身との格闘の度合いが、心地よく感じられた。そしてこの心地好さは、この作家の他の作品にもあったことが思い出された。
「風が強く吹いている」「まほろ駅前多田便利軒」「船を編む」など、これまで読んだ三浦作品は、いつも心酔するほど楽しめたが、今振り返るとそのどれにもこの処女作と同様の心地よさがあった気がする。心地よさというと、何か淡いもののように思えるかもしれないが、そうではなく痛快な心地よさだ。各作品は全く別の業界、別の日常、別の人物を描いていても、やはりどれもが三浦しをんの世界、ということなのかもしれない。



格闘する者に○ (新潮文庫)

格闘する者に○ (新潮文庫)



ボクたちの交換日記

 監督・脚本、内村光良の2013年公開の邦画「ボクたちの交換日記」を観た。原作は、放送作家鈴木おさむの小説「芸人交換日記 ~イエローハーツの物語~」 
 コンビのお笑い芸人を目指していた高校生の主人公ふたりが、いつしかそれぞれの道で、それぞれの生活を持つようになり、長い年月を経て再会するまでを描いていた。
 コンビでお笑いをやりたいのに、二人のうちの一人だけが才能を認められ、もう一人はその道を諦めるという展開の中で、二人の友情と仕事への向き合い方(つまりは自分自身への向き合い方)が示されていて、思い通りにならないことにどう対処するかで、人の生き方は決まるのだと感じた。と言うと、対処するまで生き方は決まっていなくて、どうするかを選んだ時点で生き方が決まっていくように聞こえるかもしれないけれど、案外その逆で、その人がその人である以上、選ぶ道というのは既に決まっていて(少なくとも大筋においては決まっていて)、何かの選択をする度にその人の生き方が浮き彫りになっていくのではないか、という気がした。運命論のように聞こえるだろうか。私がこんなふうに感じたのは、以前、作家の保坂和志という人が、次のようなことを何かに書いていたのを読んだからかもしれない。

「人は、自分で選んで生きているつもりでも、選んでいるのはほんの表面的な部分でしかない。こうもできるああもできると思っていても、実際にはこうとしかできないものだ。」

 保坂氏が述べていたこのことを、この映画が具現化しているように私の目には映ったのだと思う。
 自分という人間が一人しかいない以上、最終的に選べるのは一つの道だけだ。ああもできたしこうもできたのに、と悔やむのは自分への言い訳であり甘えなのだろう。 
 私はこの映画のラストシーンが好きだ。どうということもなく交わされる、主人公ふたりの二言三言のやり取りに、長い年月にさえ収まりきらなかった二人のえも言われぬ思いが溢れでていたように思えてならない。

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ボクたちの交換日記 [DVD]

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  • 発売日: 2013/08/21
  • メディア: DVD