映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

ぼくが生きてる、ふたつの世界

昨年公開された、呉美保監督の
「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を観た。

視聴後に、五十嵐大さんの自伝的エッセイが原作だと知った。
耳の聞こえる人にとっては、聞こえることが当たり前であり、目の前にある聞こえる世界が、世界そのものであるけれど、聞こえない人にとっては、聞こえないことが普通であり、聞こえない世界が彼らにとっての世界である、という単純とも言えそうな事実を、普段は忘れがちである。と言っても、この忘れがちというのは私の主観であり、聞こえない世界で生きている人や、それが身近にある人は、忘れがちになどならないのだろう。
同様に、見える人と見えない人、車いすを使う人と自分の足で歩く人、子どものいる人といない人、などなど、人間というのは本当に人それぞれの世界を生きているのだな、と改めて感じた。
私は、常日頃、人の数だけ普通がある(常識がある、とも言える)と思っていて、これは長年かけて見つけた真実のように感じているのだが、最近、割と頻繁に会う機会のあった人に「人の数たけ普通があると思う」と伝えたところ「それは極論だよ」と即座に言われ、簡単に切り捨てられた感じがあって、少し戸惑った。戸惑ったのは、これまで同じことを口にしたとき、相手がいつも同調してくれたので、(少なくとも表面上は)簡単に却下されることなど予想していなかったからだろう。
しかし、人の数だけ普通があるなら、「人の数だけ普通がある」という考えについても受け取り方は人それぞれになるのだから、私が戸惑うのは矛盾だったのだ。
年齢を重ねるほど「〇〇とはこういうものだ」というような、自分の中の定義のようなものが増えてくるのかもしれない。そしてそれは他者から見れば、本人の思い込み、である場合もあるだろう。自分にとっては紛れもない真実だったり、当然だと思えることも、見方よっては違う解釈があり、当然でも、真実でもなくなるのだということは、いつも忘れずにいたい。そうすることは、自分とは違う考えや、知らない世界を受け入れる余裕が常にあるということになるのだから。

会いたかった人(小池真理子)

小池真理子著「会いたかった人」を読んだ。
表題作を含む 短編集で、ジャンル分けをするなら、サスペンスということになるのだろう。
私は、心情や人間関係を描いているような日常に即した物語が好きで、普段は推理物やサスペンスなどにはあまり手を出さない。事件が起こって、その展開を追っていくことで 謎が解き明かされるような話は、おそらくは流れを追うことに労力を使うせいで楽しむ余裕が半減してしまう気がするのだが、この本は日常の中に隠されたサスペンスとでも言いたくなるような、展開を追う気などなくても自然と流れが見えてくるようなお話になっていて、とても面白かった。思いがけない方向に転がっていったかと思うと、最後はどきりとさせられた。
さて、
死ぬまでにもう一度会いたい、と思う相手がいる場合、実際に会ってしまう方がいいのか、会わずに終わる方がいいのか、かなり微妙なところの気がする。人それぞれであり、ケースバイケースだろうけれど。
ひとつ言えるのは「会いたい人」が「会いたかった人」に変わるとき、私たちは決して後戻りのできない道に進んでいるということだ。それは何か、とてつもない可能性を手放してしまう瞬間なのかもしれない。

パレード

NETFLIXで配信された映画
「パレード」(藤井道人監督)を観た。

死んでしまった人たちが、現世にやり残してきたことをやり遂げるまでの物語、と言えるのだろうと思う。
私としては、死んでしまってからでは、たとえやり遂げたところで、生きているうちにやり遂げられなかった無念さは拭えないような気がしたけれど、生きているうちにはできなかったことも死んだからこそできるとか、生きているあいだは、それをやり残しているということに気づかずにいた、というようなこともあるかもしれない、と感じた。
そして、死ぬまでにやりたいことを箇条書きにして並べるというバケツリストのことを思い出した。明日死ぬかもしれないという点においては、産まれたばかりの赤ん坊も100歳近い長老も、等しく可能性はあるわけだが、ある程度の年齢になると、残された時間というものを意識するようになる。ただそれも、やり残しているかもしれないこと
を、やりたいと思うだけの気力と、それをやれるだけの体力があるうちの話かもしれない。

ドライブマイカー

2021年公開の濱口竜介監督の映画「ドライブマイカー」を見た。
妻を亡くした俳優と、妻亡き後に彼の運転手を務めることになった若い女性との出会いが描かれていた。
出会いといっても、2人が共有する時間は限られたもので、 お互いが相手の人生に深く関わることはない。それでも、2人ともが、自分だけの秘密として抱えていた気持ちを分かち合った場面が印象的で、現実にもこうしたことは起こり得るのだろうと思わされた。親しい付き合いはなくても、ある一点において、それも、誰にも見せることなどないと思っていた自分を苛む一点を、お互いに理解し合うというようなこと。
それは、お互いにとっての救いになる、ように思える。
この映画の原作である、村上春樹の同名小説も読んだ。
映画は、小説の内容を押し広げていて、かなり脚色されている感じもあったが、鑑賞後に手渡されるものの感触に、違いはなかったように思う。

神さまのビオトープ(凪良ゆう)

凪良ゆう著「神さまのビオトープ」を読んだ。

素敵なお話だった。
誰かにとってのたったひとりになりたかったなぁ…、もう無理だなぁ…と、よく思っていたけれど、相手にとって自分が何なのかなんて、本当には知る術などなく、二人の間にあるもの、と、こちらが思っているものも、結局はこちら側からの一方的な思いでしかない、というような、そんな当然なことに、今さら気づいたりしている。
この本を読んで気づいたのではなく、そのことに気づいたタイミングでこの本に出会い、気づいたあとだからこそ、主人公の生き方により深く共感できたように思う。

自分が感じたことや受けとめたことを、共感という言葉で表せるのかどうか、甚だ不安ではあるけれど。

「二人の間にあるもの」に話を戻すと、それは「二人の関係性」とも言えるのかもしれないが、二人の二人のと言いながら、つまりはこちらが相手をどれだけ信頼しているか、どれだけ許せるか、どれだけ受けとめられるかに、かかっているのだ、ということも、なんだかやけに晴れやかな気持ちで納得してしまう。
しかし、この私の「納得」を、歪んだ見方だと解釈する人もいて、その人に「相手が自分をどう思っているかは、お互いに信頼していればちゃんとわかるはず」と、反論されたい気もするのはなぜだろう。

もしかすると、全面的に信頼できる相手がひとりもいないことを、孤独と呼ぶのかもしれない。人はみな孤独、という言葉について、考えてみたくなる。
神さまのビオトープ (講談社タイガ)

ある男(平野啓一郎)

 平野啓一郎著「ある男」を読んだ。
 単行本の帯に
「愛したはずの夫はまったくの別人だった」とあって、読む前は「どういうことだろう 。面白そうだな」と、あまり深く考えずに思っていた。そして読み終わった 今、 別人という言葉が、なんとなくしっくりこない。別人も何も、愛した夫は、その愛した夫 ひとりしかいない。戸籍上の名前が 実は違ったことを「別人」としているけれど、どんなに誰かになりすまそうとしても、人はやっぱり その人自身でしかないのではないだろうか。という気がした。
 インターネットを経由して相手と会うことなく交流する場合は多少違ってくるかもしれないが、目の前に 実体があって、その人と言葉を交わし 時間を共に過ごしていたら、たとえ 過去を偽られていたとしても、戸籍上の名前が違ったとしても、目の前のその人と過ごした時間が偽物だったということにはならないように思う。
 この物語では夫となったその人の家族と連絡を取ったために、夫の戸籍上の名前と実体が一致していないことが問題になってしまう。戸籍は家族のつながりを示すものとしてはとても重大で大切なものであるけれど、家族と切り離して 個人をただ一人の人として認める場合、大した意味を持たないのではないだろうか。
 そう考えると、人の名前も過去も、その人自身がその人自身であることを示すための、ほんのきっかけのようなものに過ぎない、という気がしてくる。
 私はいつの頃からか、「言葉の使い方には 人間が出る」と思うようになった。その人がその人自身であることを判断する基準のようなものは、その人に関わる 相手次第で違ってくるのかもしれない。

ある男 (コルク)
ある男 [DVD]

正欲 (朝井リョウ)

 朝井リョウ著「正欲」を読んだ。
 深く静かな衝撃を受け、考えさせられた。
 この社会にとって想定内のマイノリティと想定外のマイノリティがある、ということは、これまでほとんど意識していなかった。
 「好み」という言葉があるけれど、好きだと思う気持ちは理由はなくても成立するわけで(と私は思う)、「好きだから好き」という論理を正当なものと受け取るならば、「嫌悪感」にも理由はいらないことになる。実際「嫌なものは嫌」と言われたら返す言葉はなくなり、相手の「嫌だ」という気持ちを受け入れるしかない。と、私は思うが、そんな私の想定の外にいる人がいてもおかしくはなく、そのような人にとっては「これを嫌だなんて考えられない、どうかしている」となるのだろう。すると同様に「これが好きだなんてどうかしている」となることもあり得ることになる。人の好みを他者がとやかく言うことほど無意味なことはないように思うけれど、人を殺すことが大好きで殺さずにはいられない、という人がいたら、とやかく言うどころの話ではなくなる。人殺しの例は極端だけれど、どこまでを「好み」の範疇として捉えるか、またはどこまでを「よくあること」として捉えるかという点が、既に人それぞれであるのに、それぞれであるからこそ、大多数が描く輪郭のようなものが「常識」と呼ばれてしまうのかもしれない。
 誰もが「他者を理解できないことなど当たり前」という前提に立っていれば、多様性を尊重するのは意外と容易になりはしないだろうか。そして、それが本当に尊重される社会なら、多様性という言葉は不要になるのかもしれない。
 

星を掬う (町田そのこ)

 町田そのこ著「星を救う」を読んだ。

 親子や家族の物語が、人生の物語でもあるのは、一人一人の生き方を描かなければ親子や家族の関係を描き出すことはできないからなのだろう。

 「母親」という存在も、母親である前にひとりの人間なのだ、ということがこの本には描かれていた。
 これは当然のことのように思えるけれど、一方で「子どもを産んだ女性は母親であることを最優先にすべき」というような考え方もまた、当たり前のように有りはしないだろうか。考え方と呼べるほど大袈裟なものでなく、そのような雰囲気がある、と言った方がいいかもしれない。そして、考え方であれば、それを選ぶかどうかは自分次第のところがあるが、雰囲気というものは選ぶ以前にそこにあったりする。

 もちろん子どもは、食べるものも着るものも全て親に与えてもらわなければ生きていけない。子どもにとって、子どもである自分のことを最優先に考えてもらうことは、時として必要なことだろう。
 しかし、どのような態度が「子どもを最優先にしている」といえるのか、答えはないように思う。言い換えれば、親の数だけ答えがあるのかもしれない。子どもが歓迎できる答えを持つ親もいれば、あまり歓迎されない答えを持つ親もいるだろうし、子どもの受けとめ方も一人一人違うはずだ。さらに言えば、親から最優先どころか少しも優先してもらえないことが日常となる子どもも世の中にはいるけれど、必ずしもそれが、その子の不利益になるとは言えない気がする。無責任にこんなことを述べるのは、親から最優先に扱われたことが裏目に出る場合もあるだろうと思うからなのだが、私の乏しい想像力では確かなことなど言えない。

 明らかなのは、人は、自分以外誰も歩けなかった人生を歩くのだ、ということだろう。


 この本を読んで、自分の人生を愛おしく感じるということが、精いっぱい生きる、ということなのかもしれない、と思った。






パッチギ

 2005年公開の井筒和幸監督作品「パッチギ」を観た。
 話題になっていた公開当時から、いつか観ようと思っていたが、もう17年も経っていたことに驚く。
 舞台は1968年の日本で、主人公は高校生。この映画を観て思い出したことがある。
 いまから30年以上前のことだけれど、高校の同級生に朝鮮人の両親を持つ男子がいた。高校を卒業してから、その彼と私の親友が恋仲になった。私は彼の両親が朝鮮人だということも、彼の名前が日本用に作られたもので、朝鮮人としての本名が他にあるということも、卒業後に親友から聞くまで知らなかった。親友も彼と付き合わなければ、彼を日本人と思ったままだったろう。社会科が苦手だった私は朝鮮と日本の関係やその歴史に疎く、うっすらと「何か良くない関係があった」という漠然とした印象を持っているだけで、それも昔のことと思っていた。だから親友が「このまま彼と付き合い続けても、未来は暗いだろう」というようなことを言ったとき、少し驚いたのだった。
 彼の両親が、息子の結婚相手には朝鮮人を望んでいる、望んでいるというよりはそれが当然だと思っている、という話を彼から聞いたという親友は、今すぐ結婚したいわけではないけれど、いつか別れる前提で付き合っているわけでもないから複雑な気持ちなのだと伏し目がちに語った。彼女は教養と知恵と落ち着きのある、かわいらしくも美しい女性で、人柄も温厚だった。こんなに素敵な女性なのだから、会ってしまえば彼の両親も受け入れてくれるのではないかと私は考えたが、なぜかそれを口にすることはできなかった。軽々しくそんなことを言うべきではないと、どこかで感じていたのだろう。
「パッチギ」を見て、やはり当時の私の考えは浅はかなものだったと思わされた。
 過去の出来事をなかったことにはできないし、国と国の関係というのは一度こじれると根深いものが残る。これは若い頃にはピンとこないことだったが、歳を取るにつれて頷けるようになった。けれど根深いからこそ、丁寧に対処し、両者が明るい未来を共有できるように歩み寄る努力をしてほしいと思う。それをしてくれるだろう政治家や政党を選んで投票する、というのが一個人としてできることであり、国民としての義務でもあるのだと感じる。
 
 社会科が苦手なまま大人になり政治にもあまり興味を持たずにいた私に、この映画は「国民としての義務」を実感させてくれた。改めて映画のもつ力、のようなものを知った気がしている。





望み

2020年公開の堤幸彦監督作品「望み」を観た。
  
 犯罪がストーリーの軸になっている映画はたくさんあり、これまでにいくつか観てきたが、大抵の場合、犯人は誰なのか、犯行はどう展開したか、という点に興味が集中するように思う。或いは、犯罪の意味や動機について考えさせられることもあるけれど、この映画のようなベクトルで観る者を引き付ける作品は、私は初めてだった。
 犯罪を中心に置きながら、この映画のテーマは全く別のところにあり、しかも多角的で奥深いものに思えた。 
 親が子を思う気持ちや夫婦の在り方に正解などなく、誰もが自分なりの答えを自分の正解として掲げるよりほかないのだと示されたような気がする。そして人の感情は、道徳や倫理の枠の中にあろうとなかろうと、そもそも範囲が不確定なその枠に収まっているかどうかが問題なのではなく、その感情にどう向き合うかが、本人にとっても周囲にとっても一番大切な点なのだろう。感情は自分と一体化している場面が多く、その時間が長いと、向き合うという認識を持つことさえ難しいのかもしれないが。




エイプリルフールズ

 2015年4月1日公開の映画「エイプリルフールズ」を観た。
 観終わったとき、やけに充実感があり、登場人物たちのこれからを心から応援したくなるような清々しい気持ちだった。
 タイトルから推測して、コメディかなと勝手に思っていたが、総じて人間ドラマだった。
 今思ったが、人間ドラマの要素のないコメディというのは、単なるおふざけになるのだろうか。「お笑い」と呼ばれるコントや漫才はどうだろう。それらの中にも人生の断片やドラマを感じるものももちろんあるし、一見そうとは分からなくても、人間の習性や人生の局面を下敷きにしたものが多いような気がする。教訓を求めてコメディ映画やお笑いを鑑賞するわけではないけれど、笑いながら、楽しみながら、心の奥底で 「人ってこうだよねー」とか、反対に「こんなことってある?」というような点に、実は一層満足させられているのかもしれない。
 「エイプリルフールズ」の登場人物たちは、大嘘をついている者が多かったが、身を守るための鎧のような嘘ばかりだった。現実は映画ほどうまくいかないとしても、嘘から生まれる真実、というものが絵空事でなく実際にも有りそうに感じた。
 そういえば「一番ついてはいけない嘘は自分につく嘘だ」という言葉を聞いたことがある。
 自分に嘘をつかない生き方をするために、誰かに嘘をつかなければならないことも、ひょっとするとあるのかもしれない。





82年生まれ キム・ジヨン (チョ・ナムジュ)

 チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳「82年生まれ キム・ジヨン」を読んだ。
 読み進めるうちに、あれ、これってノンフィクションだっけ?と一瞬混乱し、解説を見て小説であることを確認してしまった。
 最初から最後まで、共感し通しで読んでいた気がする。この本を、多くの人に読んでほしいという声が上がるのは当然だろうと感じる。
 男女の違いがあるからこそ人類は続いてきたわけで、違うこと自体は残念なことでもなんでもなく、むしろ必要なことなのではないかと考えると、違いを理由に(違いのせいで)どちらかが不当に扱われたり、不快な思いをさせられたりするなんて、理解できないことだと感じる。でもこの本にもある通り、昔は、(割と最近までとも言えるかもしれないが)この「不当」が、不当と思われていなかった時代もあって、「不当」を「不当」であると世の中が認識したことは前進に違いない。問題提起という言葉があるけれど、実は「問題」なのに、誰かがそれを問題として提起しなければ何の対応も改善もないままに、問題の渦中にいる本人たちでさえ「仕方のない事」として、或いは 「そういうものだ」として、やりすごしてしまうかもしれない。そうして放置された問題が、社会の中で歪みとなっていくのなら、やはり問題提起は大切なことだと思う。たとえ解決への道のりが長く険しいものだとしても。また、最初に声を上げるのは勇気がいるとしても。
 男として、女として、こだわりを持って生きることと、性別に囚われて生きることとは全く別の次元の話になるだろう。男も、女も、そのどちらでもない人も、 「違い」に囚われずに生きていけたらいいなと思う。




誰も知らない夜に咲く(桜木紫乃)

 桜木紫乃作「誰も知らない夜に咲く」を読んだ。
少し前に(数ヶ月前だろうか)ラジオ番組の朗読でこの作家の、たしか「冬ひまわり」という短編を聞いた。(冬ヒマワリ、又は冬向日葵、かもしれない)その物語が心にしみて、以前読んだこの作家の「ホテルローヤル」も面白かったなぁと思いだした。

 「誰も知らない夜に咲く」も短編集だが、どれも有りそうで無さそうな、無さそうで有りそうな物語で、おそらく自分の身には起こらないことだし、自分の日常とは別世界の話だったりもするのに、全編を通してなぜか他人事とは思えない感触が残った。それは「感情移入できた」とか「リアリティがある」とか、そういう言葉で説明できるものではない気がしていて、私としてはやはり「他人事とは思えない感触」としか言いようがないものだ。

 より抽象的な表現になるのかもしれないが、別の言い方をすると紫乃さんの作品を読むと、心を湿らされる感じがする。潤うというのとは違い、胸の内側が湿って、ほんの少し重さを増すような、厚みを持つような、そんな感じだ。 この本は何年も前に出たものなので、これ以降の桜木作品も未読のものがあると思うと読むのが楽しみだ。


旅する練習 (乗代雄介)

 乗代雄介著「旅する練習」を読んだ。
 風景描写の多い本だった。タイトルに「旅する」とあるように、目的地までの旅の道程を軸としていて、旅の中で目にする景色が次々と描かれていた。
 そのことと関係があるかどうかはわからないのだか、私にとってこの本は、普段読んでいる他の小説とは少し感触の違う本だった。何が違うのかはっきりとは言えないのだが、感覚的には、普段の読書が舗装された道をスニーカーでスタスタ歩くように進んでいくのに対し、この本は砂利の上を裸足で歩いているような感じがあった。最初の四分の一か五分の一くらいは特にそうだったから、段々に慣れたのかもしれない。では読みにくかったのかというと、そういうことでもない気がする。砂利道はスタスタ歩くには適さず、一歩一歩ふみしめた方が楽しめるということだろうか。しかも裸足の方が砂利を感じることができる。初めは砂利道だったのが、どこからか芝生になり、砂浜や遊歩道なんかも通ったのかもしれない。こんな言い方は、人に感想を伝える言葉としては抽象的で分かりにくい下手な表現かもしれないが、自分の感じたことの覚え書きとしては満足だ。
 旅が描かれているせいか、紀行文のような匂いを時折嗅ぎとっていたが、後半はこの本が小説であることを思い知らされるような展開が畳み掛けてきた。
 読み終えた今、小説というジャンルの幅の広さを教わったようにも感じている。




K との再会 (おろかなチホ)

 今日はちょっといつもと違う投稿をしてみようと思う。

「心淋し川」を読んで、人は皆物語の中を生きているのだと改めて感じたせいか、自分の身に起こったことで、忘れられないことを文章にしてみようと思い立った。とはいえ劇的な出来事でもなんでもないのだが。


 二十五歳のとき、中学時代の友人Kと会う約束をした。彼と最後に会ったのは二十歳のときのクラス会だったが、年に一回程度電話をしていた。中学三年の時のKと私の仲の良さはクラス公認で、授業中によく手紙のやり取りをした。Kは私を誰よりも理解していると私に思わせた最初の他人で、間違いなく私にとって特別な存在だった。

 別々の高校へ進学し、顔を合わせなくなり、忘れた頃に電話をかけるだけになっても、Kが特別であることに変わりはなかった。

 なぜ、会うことになったのか経緯は覚えていない。経緯などなく、どちらかが唐突に「今度会おうか」と言えば、相手に断る理由はなかったのかもしれない。

 当日、私は十分遅刻した。都心ではないが複数の路線が乗り入れているターミナル駅は、師走の忙しさもあって混雑していた。待ち合わせ場所のみどりの窓口付近にKの姿はなかった。私は約束の場所ではなく、そこがよく見える場所に立った。Kのほうから「よう」と声をかけられるより、私が先にKを見つけたかったのだと思う。けれど二十分たってもKは現れなかった。

 その駅のみどりの窓口はかなり広く、周囲にはたくさんの人が立っていた。私は彼らの顔を横目で盗み見ながら十メートルほどの距離を行ったり来たりしてみたが、Kらしい人物はいなかった。私は動くのをやめ、人待ち顔の彼らの列に加わった。そこに立ったまま一時間半が過ぎ、私は帰宅した。携帯電話が普及し始めた頃だったが私は持っていなかった。急用でも出来たのたろうかと考えた。時間通りにKは来ていて、十分も待たずに帰ってしまったのだとはどうしても思えなかった。

 ひと月ほどして私はKに電話をかけた。待ち合わせの日のことを尋ねると「俺、行ったよ」と言った。一時間待ったのだと。仕事帰りでスーツの上に黒いコートを着ていたと聞いて、私は合点した。ネクタイ姿のKなど、思ってもみなかったのだ。もう社会人になっていて会社勤めをしていることも知っていたのに、私が探していたのは最後に見た、学生のような格好のKだった。Kのほうも、私の服装やヘアスタイルを聞くと「それなら見たかも」と言った。改めて会おうとは、どちらも言わなかった。

 あれから随分と長い年月が過ぎたが、あの日会えていたら、人生が違ったのではないかと思うことがある。Kに会い、二、三時間、他愛ない話をして別れ、それきりまた会わなくなっても、その二、三時間が、その後の私の励みとか、指標のようなものになり得たのではないかと思うのは感傷だろうか。おそらくは、感傷などではなく、自分の人生を買い被りたいだけの甘えなのだろう。


 今ではすっかり疎遠になったが、年賀状のやり取りだけは続いている。一往復に二、三年かかったりしながら。