映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

星の子 (今村夏子)

  今村夏子著の「星の子」を読んだ。
 以前、デビュー作の「こちら、あみ子」や、短編集の「あひる」も読んでいて、ひょっとするとこの作家は誰も書こうとしなかったことを、或いは書こうとしても書けなかったことを、書いているのかもしれない、と感じていた。
 言うまでもないことだけれど、作家たちは「何か」を書いている。もちろん小説や物語を書いているのだけれど、ここで言いたいのはそれらを通して「何か」を書いている、という点だ。その「何か」は言葉で説明できるものではないのだけれど、カテゴライズすることはできる、と思う。たとえば、家族愛とか友情といった枠の中に。いや、この枠組みにつける名前さえ、言葉にできるものではないのかもしれないが、枠自体は確かにあって、私の場合、「枠」が存在しているのだ、ということを今村夏子の作品によって強く意識させられた。というのも、この「星の子」に書かれていた「何か」が、私の知っているどの枠にも収まらなかったからだ。
 どうやらこれまでの私は、小説を読んだあと、その作品に書かれていた「何か」を無意識のうちに分類していたようだ。他の今村夏子作品、「こちら、あみ子」や「あひる」を読んだときのことを思い返すと、これまで触れたことのない「何か」を感じて、どの枠にも入らないからとりあえず「その他」のラベルを貼っておいたのだった、という気がしてくる。そして「星の子」を読んだいま、今村夏子という作家は、私が認識していた枠と枠との隙間にある「何か」について、書いている作家なのだ、と感じている。しかも、そこに隙間があることさえ、はっきりとは気づいていなかったのに、ここにこんな隙間があるんだよと示されてみれば、目から鱗で、隙間の存在に感謝したくなるような隙間なのだ。ニーズを掘り起こすという言葉があるけれど、読み手が(私が)無意識に読みたがっていたものを差し出してくれたのだと思う。
 客観的に見れば、私が隙間だと捉えたものを、最初から枠として持っていた読者もいて、そういう人には「あなた、ずいぶん窮屈な生き方してましたね」と、言われてしまうかもしれない。おそらく「何か」を読む、という行為は、私にとって、窮屈さからの解放につながることなのだろう。