映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

家守綺譚 (梨木香歩)

 数年前に一度読み、簡単に言うと「最高」と感じた記憶がある。小説なのだろうけれど、おとぎ話のようなファンタジーのような、それでいて現実的な手触りのある不思議な、でも読んでいると妙に落ち着いた、温かい心持ちになる本だ。
 この本の中の好きなフレーズを書き留めておく。
「死んでいようが生きていようが、気骨のある魂には、そんなことあんまり関係ないんですよ」
「思い込みというのは恐ろしいものだ」
「だかとりあえずは思い込まねばな」

 そのうちまた読み直す気がする。
 こういうのを愛読書というのだろうか。
  
  
家守綺譚






3月のライオン

 大友啓史監督、神木隆之助主演の「3月のライオン」を観た。
 いい映画だった。2日間に渡り、前編・後編と観た。どちらも2時間以上で長かったけれど、もっと観ていたかった。
 孤独を描くことで、人はひとりではないことを伝えているような映画だった。プロ棋士の世界は凄絶なのだろうと感じた。戦うという言葉が、これほどふさわしい世界はないのではないかと思うほどだ。努力してなれるものでもない、選ばれた者だけの世界。心血を注いで努力しているのに、自分ではそうと気づかないほど、とことん努力できる者だけが選ばれていく世界なのだろう。
 世の中には天才もいればろくでなしも確かにいて、そのどちらでもない人がほとんどだ。そして、天才は天才なりに、ろくでなしはろくでなしなりに、どちらでもない者はどちらでもないなりに、もがきながら生きていて、結局はその誰もがただの人間に過ぎないとも言える。
 キャストはみなはまり役に思えたが、高校教師役の高橋一生が、いい味をだしていた気がする

  
3月のライオン【前編】 DVD 通常版
3月のライオン【後編】 DVD 通常版




聖の青春

 若くして亡くなったプロ棋士の生涯を描いたノンフィクション小説を映画化した作品だった。
 羽生義治と互角に渡りうほどの才能の持ち主で、10代の頃から頭角を表し、メキメキと力をつける彼だが、幼いころから難病を抱えていた上に膀胱癌を発病してしまう。
手術をしなければ余命は3か月と宣告されたとき、麻酔をすると脳が鈍るから、「将棋、弱くなりたくないんで」麻酔なしなら手術をしてもいい、と言った場面が忘れられない。羽生義治と初めて二人きりで、ひっそりと酒を呑む場面もまた、印象的だった。「負けたくない」それがすべてだと言い切る二人がその晩交わした、一見抽象的な約束は、将棋という魔物にとりつかれた天才同士の、真摯な約束だったに違いない。それが果たされる場面には心底、胸を打たれた。
 天才と比べても仕方ない、などという言葉が言い訳にしか聞こえないような、見終わったとき、自分の人生を振り返らずにはいられない、そんな作品だった。

   
聖の青春 [DVD]





ことり (小川洋子)

 ことりとその歌声を愛してやまない兄弟の物語だった。
 兄は10歳のときに、弟以外の誰にも理解できない言葉しか話さなくなる。そして、両親が亡くなったあとは、兄が52歳で亡くなるまで兄弟二人きりで暮らすのだが、慎ましく内向的な生活の中で、小鳥の存在だけが明るさと豊かさを添えていた。
 小鳥の声に耳を澄ましたり、小鳥の様子を、つまりは小鳥の命をじっと見つめる時間を大切にすることのほかには、こんなに変化のない、住んでいる町から出ることもないような人生が、実際あるものだろうかと思ったが、少し考えてみると私自身の人生こそが内向的で自分の町から出ないようなものではないかと気がついた。若いときには何度か国内旅行をしたけれど、行き先は限られていたし、趣味と言えるほどのものもなく、成り行きで仕方なく結婚してからは日々家事を繰り返すばかりだった。
 しかし、誰にとってもこう生きなければならない、ということはなく、自分の生活に自分で納得できればそれでいいのだろう。こんな風に思えるのは、ここ数年で趣味は読書と言えるようになったことや、最近はDVDで、ではあるが、映画をよく観ているせいもあるのだろうか。人生は他者に認めてもらうためにあるのではない、と思う。そういえば「あん」という映画の中の言葉に「私たちは、この世を見るために、聞くために生まれてきたなら、何にもなれなくても生きる意味はある」というのがあった。
 人生の捉え方も、人それぞれで構わないに違いない。
    

ことり

ことり





追憶

 2017年公開の降旗康男監督作品「追憶」を観た。
 孤児、暴力、殺人、隠蔽、別離。最初からずっと、うしろめたさに覆われたような空気が漂っていたけれど、人が人を思う気持ちが物語の奥底に流れていた。そしてその気持ちが明るく幸せな時間を生み出すわけではなく、むしろ寂しさや悲しみを掘り起こす場合が描かれていた。
 殺人事件の犯人や動機より、もっと重大な(というと殺された人に申し訳ないのだが)パンドラの箱のような秘密が最後に明らかになり、そんなまさかと思いながらも、救われたような、でもやっぱりやりきれないような複雑な気持ちにさせられた。
途中「運命なんだ」という言葉がでてきたけれど、いつどこで聞いた「運命」よりも、重たく深い感触が残った。

追憶 DVD 通常版

追憶 DVD 通常版





りんごの花咲くころ (石坂洋次郎)

本棚の片隅にひっそりと収まっていた本を読んでみた。
初版は、昭和50年12月30日
そして、昭和54年9月20日 7版発行、とある。
おそらく30年以上前に購入した文庫本だるう。タイトルに見覚えはなく、自分で買ったのかどうか判然としないが、忘れているだけで自分で買ったのだろう。
今の文庫本よをも字が小さく、どのページもすっかり変色していたが、収録されている5つの短編は、どれも密度の濃い小説だった。小説に密度の濃い薄いがあるのかどうか分からないが、手短にこの本の印象を述べようとしたら、そんな言葉になった。
表題作の「りんごの花咲くころ」は戦中戦後の話て、夫が戦死し、形見を持って訪ねてきた夫の部下と残された妻が、家族ぐるみで交流するうちに心を通わせていき、やがて夫婦になるのだが、何年か前に映画になった「永遠の0」を思い出させた。実際、戦争のために引き裂かれた夫婦はいくらでもいて、その数だけ家族の物語もあるのだろう。
国や世界の歴史からみたら、人間の一生はほんの一瞬で、それをのみ込みなから変化していく「時代」こそが生き物のように思えてくる。  
林檎の花咲くころ (1956年) (角川小説新書)

怒り

 2016年公開の李相日監督作品、「怒り」を観た。
 後半は、終わりに近づけば近づくほど、誰が犯人なのかばかり気になって、こいつだろう、いややっぱりこっちか、まさかあいつなのか、と犯人探しに翻弄されてしまい、愛する人を信じられるか、とか、愛した人が殺人犯だったら、というような倫理的、心理的な視点を忘れていた気がする。しかし、単なるサスペンスではなかった。
 人と人が信じ合うことは難しいのだろう。一見、信頼関係が成り立っているように見えても、何か重大な局面に晒されたとき、どんな行動に出るかは、誰にとっても自分自身でさえ想像できないものかもしれない。心から信じられる相手がいるというのは幸せなことに違いないと思いつつ、では信じるとは一体どういうことなのかと考えると、はっきりとは言葉にならないのがもどかしい。そして、信じようとか、信じられる、と言っているうちは、信じていないのだということも感じる。
 人間なんてちっぽけなものかと思っていたけれど、それも一面に過ぎず、人の心の深さは計り知れないという見方も、できそうに思えてくる。
    
怒り DVD 通常版
怒り (下) (中公文庫)

殯の森

 公開されてから、もう10年以上もたっていたとは思わなかった。
 ストーリーの流れのようなものはあまり感じられず、ただ、死と生がそこにある、という印象だった。タイトルに「森」が入っているが、本当に森の中をさ迷う場面があり、というか、その場面がこの映画のすべてのように見えた。
 私は大切な誰かを死によって奪われたことがないから、この映画を心から理解することはできないのかもしれない。思ったのは、命があるものは、どんなことがあっても生きなければならないということ。そして、生きるということは、実はとても不安定な状態で、誰にとっても綱渡りのようなものなのではないかということだった。



殯の森 [DVD]


均ちゃんの失踪 (中島京子)

失踪した均ちゃんの家に泥棒が入った、という状況から始まる表題作を筆頭に、「のれそれ」「彼と終わりにするならば」「お祭りまで」「出発ロビー」と四つの短編が続くのだが、登場人物と時間の流れを共有していて、全体で一つの作品になっている。
最初から面白かったけれど、「お祭りまで」で失踪した均ちゃんがいきなり登場したのには意表をつかれた。なぜ失踪したかの種明かしにもなっていて、思ってもみない理由に、静かに興奮しながら読んだ。
面白い本だった。面白かったし、何だかわからないけれど、すごくよかった。
とてもとても終わりが良くて、読後感がよくて、もう一度読みたいと思い、でも時間があまりなかったので、最後の「出発ロビー」だけを再読した。やはり爽快感が残った。何と言えばいいか、日頃なかなか受け入れ切れずにいるダメな自分や嫌な自分を、すんなり許してくれるような小説だったのかもしれない。なぜそう感じるのかは全く説明できなくて、自分でもそんな風に感じるなんて唐突だと思うけれど、とにかく、そんな気がしたのだ。小説を読んでこんな気持ちになったのは初めてだ。この先、二度三度と読み直す本になりそうな気がする。
      
均ちゃんの失踪

東京ウィンドオーケストラ

坂下雄一郎監督の映画「東京ウィンドオーケストラ」を観た。
あらすじを読んで、ドタバタのコメディを期待していたけれど、ドタバタ劇というほど忙しい感じはなく、どちらかというと呑気な雰囲気さえ漂っていたように思うが、それは舞台となった屋久島の、雄大な自然のせいだろうか。
 カルチャースクールで楽器演奏を練習しているだけの社会人10人が、日本一有名なプロの吹奏楽団と間違われて屋久島に招待され、間違って招待されたのだとは気づかないまま現地での時間が始まってしまう。招待した方もされた方も、そこに「間違い」があることを知らないうちはどちらも善意なのだ。自分の仮定、招待した方はプロの楽団を呼んでいるという仮定、招待された方はカルチャースクールの楽団として来ているという仮定を、当然のものとして行動するのが当然なわけで、どちらにも非はない。けれど間違いがある以上は「しっくりこない」「何か変だ」「これはおかしい」となるわけで、結局は間違いに気づく時がくる。言い換えれば真実を知るわけで、知ってしまうともう善意の時には戻れない。お互いに、相手が間違いの原因を作ったかのように責め合ったりしてしまう。俯瞰すれば、どちらが悪いと目くじらをたてるほどのこともなく、お互いに思い違いや思い込みがあっだだけのことなのだ。
 これは人生においてよくあることなのかもしれない、と思った。些細な思い込みや行き違いはそれこそ年中あるものだし、本来あってはならないような取り返しのつかない思い込みや行き違いだって意外と多いのかもしれない。いや、そんな大きな間違いは多くあってほしくないけれと、それでも、間違って人の命を奪ってしまったというような場合でない限り、始まりが善意てあるならば、「仕方ないよね」「まさかそうとは気づかなかったよね」と諦めて、それまでの時間を否定せずに、「そういうこともある」「それもまた人生」と認めていいに違いない。間違ったからこそ生まれた何かが存在するならなおのことだろう。
 実は思い込んでいただけのことを、思い込みだと気づかずに一生を終えることだってあるのだろう。それを滑稽と思うのは他者としての価値観であり、当人が最後まで思い込んでいたなら、当人にとっては紛れもなくそれが真実なのだ。
 この映画を借りたのは、笑えそう、と思ったからだった。声をあげて笑うようなことはなかったが、楽しめたし、やけに前向きな気持ちにさせられ、爽快感が残った。 
      
東京ウィンドオーケストラ [DVD]

女中譚 (中島京子)

 「ヒモの手紙」「すみの話」「文士のはなし」の三つの短編が収められた本で、どれも、すみという名のばあさんの語りであり、そのばあさんの若いころの話だった。
満州事変、戒厳令、戦争、昭和、といった言葉が当たり前のように出てきて、そう遠くないようにも、果てしなく遠いようにも思える時代の話なのだが、女給や女中や、それを雇うものたちの生活が、なんだか身近に感じられるのが不思議だった。時代が変わり、世の中や人々の生活が変わっても、人が自分以外の誰かと関わりながら生きていくことに変わりはなく、そうした部分、人と人との繋がり方が描かれていれば、いつの時代の話であろうと、自分や近しい人と重なるものをどこかに感じるのかもしれない。
この三作はそれぞれ、林芙美子の「女中の手紙」、吉屋信子の「たまの話」、永井荷風の「女中の話」へのトリビュートであることが、それぞれのさいごのページに記載されている。
永井荷風は名前を知っているだけだし、吉屋信子という作家は初めて知ったけれど、こうなると元になった三作の方も読んでみたくなる。
        
女中譚








ふくわらい (西加奈子)

 数年前から気になっていた作家で、芥川賞に輝いた作品を含め、著作はたくさんあるのだが、巡り合わせでこの「ふくわらい」を最初に読むことになった。
 芥川賞作家はその年の話題になるので、姿を目にする機会もあり、その容貌や作品のタイトルから、無意識のうちに「西加奈子の紡ぐ物語」を勝手にイメージしていたようだ。イメージといっても、ひどく大雑把なぼんやりとしたものではあったのだけれど、この小説はそのぼんやりとしたものをはっきりと塗りつぶしてしまった。
 子どもの頃に人肉を食べたことのある若い女性が主人公で、育った境遇も平凡なものではないのだが、物語全体に独特の空気が流れていたように感じるのは、そうした設定のせいではないような気がする。では何のせいかと考えても、答えはでない。ただ、個性の強い登場人物たちが、強い個性を強調されることなく、当たり前に暮らしている様子が描かれている中に色濃く映しだされるものがあった。それはもしかすると、「生」そのものだったのかもしれない。
     

ふくわらい (朝日文庫)

ふくわらい (朝日文庫)





本能寺ホテル

 綾瀬はるか主演の「本能寺ホテル」を観た。
 現代人が何かの弾みで遠い昔にタイムスリップする、という映画や物語が、その時代や場所を変えていろいろ作られているのは、時の流れを止めたり、遡ることができたから、と夢見る人が多いからなのだろう。
 どんなに科学技術が発達しても、タイムマシンだけは作れないに違いない。あのとき別の道を選んでいたら、とか、こうなることが分かっていたら、という大小さまざまな思いは、きっと誰の中にもあるのだと思う。
 ならば、本能寺の変によって自害した織田信長は、その晩、明智光秀の謀反を予測できたなら、と思っただろうか。
 おそらくはこの映画を観た影響なのだが、織田信長明智光秀を恨みながら後悔の念の中で絶命したとは思えない。もしかすると、謀反を予測していたかもしれない。予測とまではいかなくても、あり得ないことではない、という程度の心積もりはあったかもしれない。
 自分の生き方、というと大げさな気もするが、今していることや、今日の選択が、どんな結果になろうと悔やみはしない、というささやかな覚悟のもとに、毎日を送っていこうと思う。自分が、そうするべき年齢に達したように思う。
 映画の中の、「誰もできなかったんじゃない、誰もやらなかっただけだ」という織田信長のセリフが印象に残った。

嫁をやめる日 (垣谷美雨)

図書館で見かけて思わず手に取った。
初めて名前を見る作家だったが、タイトルに限りない親近感を覚え、これは読まなければと思ったのだ。
嫁姑の確執が描かれているのか、モラハラ夫が出てくるのか、それとも予想もしない展開なのかと、親近感の裏側で怖いもの見たさが見え隠れしているような、果たして面白く読めるのだろうかとほんの少し躊躇するような、そのくせ明らかに何かを期待しているような気持ちで一頁目を開いた。
すると、いきなり主人公の夫の葬儀の場面から始まり、夫に対して「嫁」をやめるわけではないのだなと、ほんの少しあてが外れたような気持ちになったが、それは本当に一瞬のことだった。夫はもういないのに「嫁としての役割」という名目で、婚家の都合を当然のように押し付けられる主人公が、不本意な状況を抜け出すために悩みながらも少しずつ前にんでいく道筋は、一人の人間の生き方として、読みごたえがあった。不本意な状況を抜け出したいのに、それを不本意と感じてしまうことに自体に罪悪感を抱くのは、その状況を構成している誰かに対する思いやりや愛情のせいなのだ。この物語が、そのことにはっきりと気づかせてくれた。どんなことも、客観視できずに自分の中で転がしているうちは、それの全体像などまったく見えないものなのだと実感した。アメリカに奴隷制度があった頃、その廃止に尽力した大統領の言った、「奴隷として生活している人間は、自ら轡(くつわ)に手を通す」という言葉を思いだした。この言葉と同様に、この本も、今の私を支えるたくさんのものの一つとなった。

嫁をやめる日

嫁をやめる日