映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

キラキラ共和国 (小川糸)

 小川糸の「キラキラ共和国」を読んだ。
「ツバキ文具店」の続編となるこの作品、図書館に予約して順番が回ってくるまでに、およそ一年かかったということは、今なお相当な人気のようだ。
 ツバキ文具店の店主である主人公、鳩子の入籍の報告から始まり、妻となり、家族を持つ身となった彼女の生活や考え方の変化が、結婚前から持ち続けている彼女の性質や精神を土台に描かれている。なんというか、この主人公は妖精か何かではないかと思うほど、澄んだ心の持ち主に見えるのは、私という読み手の心がすさんでいるからだろうか。妖精、などというと、か弱く小さい存在のイメージかもしれないけれど、鳩子はか弱くなどなく、いつも堂々としている印象だ。それは多分、自分自身に対して潔いからだろう。周りの人の意見や気持ち、もっと広い範囲でいえば常識という名の世間体、そういうものに気を配ってばかりいると、いつの間にか自分に嘘をつくことに慣れてしまったり、或いは自分が自分に嘘をついていることに気づかなくなってしまうこともあるように思う。少し前にどこかで「自分に嘘をつけば、周りの人にも嘘をついていることになるのだ」という文を目にして、はっとした。相手を思いやったつもりでも、実のところは不誠実とも言える行動を続けていれば、いつか歪みがあらわになったり、積み重ねたはずのものが音をたてて崩れるようなことにもなりかねないのだ。
 人を傷つけてもいいとは言いたくないが、自分が傷つくことを恐れる人ほど、相手を傷つけまいとするのかもしれない。そもそも、自分の気持ちを伝えて話し合えば理解されたのに、伝える勇気がなかっただけだとしたら、とんでもなくもったいないことに思える。
 おそらくは、傷つけることも傷つくことも恐れない誠実さ、それを持てる人が、潔く生きていけるのだろう。

キラキラ共和国



リトル ミス サンシャイン

リトル・ミス・サンシャイン [DVD]
 2006年のアメリカ映画「リトル ミス サンシャイン」を観た。 
 10才の少しポッチャリした女の子が、家族の応援のもと、美少女コンテストに優勝を目指して出場するという話で、コンテスト当日、家族みんなで会場に向かうのだが、その道中に様々なことが家族それぞれの身の上に起こる。そのどれもが、その事だけを取り上げたら大層深刻て衝撃的で重大な出来事なのに、何はともあれその日はコンテスト会場へ時間までに到着し、出場することが最優先事項となってしまう。小さな女の子が過酷なダイエットや歌や踊りの厳しいレッスンに耐えて、こんなに頑張ってきたのだから、というわけでもないのだ。そこがこの映画のみどころで、ミスコン(美少女コンテスト)に焦点が当たっているようでいて、実は家族それぞれの人生が映し出されており、さらにその一人ひとりを構成要因とする「家族」というものが浮き彫りになる。
 直近に読んだリリー・フランキー著の「東京タワー」も、母親の人生を描いたものであったが、そこには息子の人生も映し出されていた。
家族というものは、そうやってお互いに相手の人生が自分の中に映し出されるような関係に、自然となっていくものなのだろう。だから、実は共存できる相手ではなかった、とか、とてもこの人の人生は引き受けられない、となった時は、家族関係を解消するという道もあるのだろう。とはいえ、血の繋がりは消せるものではないから、解消できる家族関係というのは夫婦の間くらいのものかもしれないけれど。

 この映画の家族たちは皆、本人は大真面目なのに、どこかコミカルさを醸しだしていた。最後はそのコミカルさがいつの間にか温かさに包まれていて、「家族」というものの正体を見せられたような気がした。
 



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東京タワー / オカンとボクと、時々オトン (リリー・フランキー)

 2005年初版のリリー・フランキー作「東京タワー オカンとボクと、時々オトン」を読んだ。
 筆者が自分の体験を振り返って書いたという小説で、具体的な出来事を通して、お母さんへの想いはもちろん、リリーさんの中の広大な宇宙が見事に描かれていたように思う。
 お母さんの人生を見つめることで、いろいろなことを掘り下げていた。
 「親子」「家族」「夫婦」「世間」「貧しさ」「自由」「仕事」「時代」「人生」「幸福」これら全てのことの捉え方が冷静で慎ましく誠実な印象で、心に沁みる文章がたくさんあった。
 誰だって起こってしまったことはなかったことにできない。失恋も就職も結婚も病気も。人生は意志でコントロールできるものではない。人はそもそも自分の意志で生まれてきてはいない。生まれる国も時代も選んだわけではない。与えられた人生をどう受け止めるか、なのだろう。生き方というのは、自分の人生の受け止め方なのかもしれない。
 本を読んでいて、これは覚えておきたいと思う表現や文章に出会うと、書き留めておくこともあるのだけれど、この本から書き抜いていたらB5判のノートを5ぺージも使っていた。その中から特に好きな言葉をここに残しておく。
「東京でも田舎でも、どこでも一緒よ。結局は誰と一緒におるのか、それが大切なことやけん。」
 

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
東京タワー オカンとボクと、時々、オトン(2枚組) [DVD]



寝ずの番 (中島らも)

 中島らもの短編集「寝ずの番」を読んだ。
 最初に「寝ずの番」が1から3まで、三部作で登場するのだけれど、咄家の話で、「1」で師匠が死に、「2」で兄弟子が死に「3」で師匠の奥さんが死んだという話だったので、近しい人がそんなにポンポン亡くなるなんてことは、現実にはそうないだろうと、フィクションのつもりで読んでいたら、どうやら実話に基づく話だったようでそこは驚いた。他の収録作品にも、作者を含め、実在の人物が実名のまま登場するものあがり、実生活が作品に盛り込まれていたり、題材となっていることは十分感じられるのだが、それでも読む側には「小説」という体裁で伝わってくることが、不思議と言えば不思議だ。
 文庫の背表紙に「ちょっとHで、笑撃的ならもワールドを満喫できる短編集」といったような文句があったが、本当にその通りで、娯楽として大いに楽しめる本だった。
 会社員も経験し、劇作家、小説家、随筆家、ミュージシャン、俳優、と様々な顔をもち、アル中や躁鬱病とも共に生きた作者本人の人生と同じように、作品も相当に多様なものが書かれたのではないかと想像する。次にこの作家の本を手に取るときが楽しみだ。

 
寝ずの番


探偵はBARにいる

 大泉洋主演の「探偵はBARにいる」を観た。
 以前はどんな物語であれ、人が殴り合うようなシーンはあまり好きではなかったのに、この映画の中の探偵とヤクザのやり合う場面には、どこか爽快さすら感じたのは、松田龍平演じる主人公の相棒が、気持ちいいほど強かったからだろう。ただ、最後に美しい女性がこめかみを撃って自死する場面は、顔を映してほしくなかった、というのが正直なところだ。もっと言うと人が銃で撃たれて死ぬシーンが多く、その度に目を背けたかった。私は気が弱いのか、リアルに感じ過ぎなのか、それとも私と同じような人もたくさんいるのか、わからないけれど。
 ストーリーとしてはミステリーで、しかも結構入り組んだ謎だったと思うけれど、謎解きを楽しんだというよりは探偵たちの日常を楽しく鑑賞した感じだ。主人公とその相棒の人柄やコメディタッチな展開のお陰で、たくさんの血が流れても、作品全体が明るさを持っていたのかもしれない。
 大泉洋は他に類をみない個性的な俳優のように思う。本当に魅力的だ。とはいえ松田龍平の方に気持ちを持っていかれる女性も多いだろう。などと言うと大泉洋はずっこけるだろうか。松田龍平ポンコツ車に向かって「ごめんね」と言葉をかける場面が私は好きだ。彼もまた、どんな役でもモノにする非凡な役者のように思う。

探偵はBARにいる 通常版 [DVD]
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エイジ (重松清)

  重松清著の「エイジ」を読んだ。 
 中学2年生の男子が主人公の物語で、「人が子どもから大人へと成長する過程を描いている」のかもしれないけれど、読んでいる間は、そんなふうにはまるで感じていなかった。読後に内容を振り返れば、そういうことになるけれど、小説の中にいるときはそこまで客観的にはなれない。
 何か出来事に出会ったときの心の揺れや、その出来事を通しての自分自身の変化というものは、中学生2年生でなくてもきっとあるはずで、だからだろうか、自分の年齢とはかけ離れた主人公の日常を、同級生の一人になったような気持ちで、最後まで読んだ。
 人と人が関わるということや、自分の心とどう向き合って、或いはそれにどう対処していけばいいのかを考えるためのヒントが、重松作品にはいつも溢れている気がする。いや、ヒントというのは少し違うかもしれないけれど。
 この本を読んで「どんな自分も自分だし、その自分を受け入れてもらいたいという欲求は、当たり前のものなのだ」と思えた。
 誰もが、誰かには全面的に受け入れてもらいたいのだろう。


エイジ (朝日文庫)





おと な  り

「おと な  り」を観た。 
 映像が美しい映画だった。桜の花びらに投写しているかのような、儚げな美しさがあって、他の映画とは映像の質感が違っていた。作品全体に、なんだか童話のような雰囲気があったように思う。
 ストーリー展開としては、ありそうにない偶然が重なり過ぎのような気がしないでもなかったけれど、世界のどこかに、本当にこんな偶然があってほしいと思えるような映画だった。
 主人公の同僚の言葉で、印象に残ったものがあるので書き留めておく。
「いい加減にやめなよ。人のせいにして自分許すの」
 言葉通り意味の、ストレートな表現だけれど、解釈次第で誰にでも当てはまる場面がありそうな、深い言葉の気がした。
 童話のような気配を漂わせながらも、この物語が現代を生きる男女を描いたものとして成立しているのは、主人公と関わる回りの人たちが、こうした言葉を要所要所で投げかけているからかもしれない。


おと・な・り [DVD]




ショートカット (柴崎友香)

 柴崎友香の「ショートカット」を読んだ。
この作家の作品は、数年前に読んだ「春の庭」に続いて二作目になる。
 「春の庭」を読んだ時には私が気づかなかった柴崎さんの持ち味、のようなものが、今回はうっすらとかもしれないけれど見えたように感じている。
 普段、たとえば電車に乗っているときなどに、「お互い認識できなくても、この車両に、昔旅先ですれ違った人が乗っていたりするかもしれない」などと思うことがよくあって、それは感傷とは違う、単なる物の(世界の)見方として表れる考えなのだけれど、だから何、と言われたら答えようのない、宙ぶらりんな思考だ。でもその宙ぶらりんな思考も、実はベクトルを持っているのだと、この小説は示しているような気がする。さらに、この小説には人の心理や感情といったものを、世界を構成する物体として捉えている感じがあって、そこがなんだか新鮮だった。
 自分の気持ちを「物」のように眺めて、少し距離をおくことができれば、見える世界がぐんと広がったり、180度変わったりするかもしれない。これからは私も、時々は自分の気持ちや感情と、そんな風に接してみたいと思う。


ショートカット


森山中教習所

 賀来賢人野村周平が共演した2016年公開の映画「森山中教習所」を観た。 
 ツタヤでタイトルを見るまで、この作品の存在も原作のコミックの存在も知らなかった。ちょうど家族が免許合宿中だから、なんとなく引っかかって、そのくらい何気なく借りてきたのだけれど、三泊で借りてきて三日間毎晩観てしまった。
 感動したとか、そういう訳でもなく、すごく面白かったと言いたい訳でもなく、なんだかとてもさりげない映画だったように思う。
 でも三日の間に三回観た作品など初めてで、ただ暇だったから観たということでもない気がする。
「人として間違ってる」という言葉が、こんなに前向きに明るく響くのを初めて聞いた。そしてこの言葉に妙に励まされてしまったように思う。
 教習所に通って免許を取るなんていうことは、大抵の人が通過する普通のことかもしれないけれど、車の運転ができるようになるというのは、大きな変化だ。実はとても大きな変化を、そうとは意識せず人は繰り返していくのかもしれない。そしてもう二度と会えないと思っていてもめぐり会ったり、また会えると思っていても二度と会えなかったりする。
 何でもない人生なんて、そうあるものではないのかもしれない。

森山中教習所 [DVD]

まゆみのマーチ (重松清)

 この作家の自選短編集・男子編「卒業ホームラン」に続き、自選短編集・女子編「まゆみのマーチ」を読んだ。
 「卒業ホームラン」の読後に述べた通り、重松清作品の温かさや、人の心の、というか人そのもののというか、掘り下げ方にはやはり引き込まれるものがあり、他の著作もぜひ読んでみたいと思った。
 この本を読んで思い出したことがある。それは「子の心、親知らず」ということだ。ずいぶん昔だけれど「親の心子知らず」という言葉を聞いて、子どもの立場にしてみれば「子の心親知らず」と言いたいように思ったのだ。自分が親になってからも、子ども時代にそう感じたことを否定する気にはなれない。
 ただ、個人的には、子どもの心を知ることはできなくても、子どもの存在を丸ごと受けとめることのできる親でいたいと思う。子どもの言うことに耳を傾け、やることや考えていることを、時には理解できなくても、それがあなたなのねと認めて、受け入れたい。どんなときもそうするということが、子どもの味方でいることなのではないかと思う。


まゆみのマーチ: 自選短編集・女子編 (新潮文庫)



卒業ホームラン (重松清)

 重松清の短編集「卒業ホームラン」を読んだ。
 この作家の作品はデビュー作の「ビフォア・ラン」、直木賞を受賞した「ビタミンF」のほか「流星ワゴン」「きみの友だち」を読んだことごある。どの作品もいつも、文章そのものが、というのか、作品全体がと言った方がいいのか、とても優しい。そのことに、この短編集を読んでみて改めて気づいた。物語の内容はそれぞれみんな違うし、母子家庭やいじめなど、一見寂しかったり悲しかったりするような状況が語られていたとしても、なぜだかいつも、日だまりに守られながら読んでいるような気持ちでページをめくっていたように思う。主人公や登場人物が、強さと弱さを表裏一体のように合わせ持っているのはとても自然なことで、同じように温かさと冷たさや、頑固さと柔軟さ、明るさと暗さも、同時に持っているのが人間で、それは矛盾ではないのだと教えてくれているような気がする。家族がテーマの作家だと言われているかもしれないが、家族や友だちを題材にして人間を描いているなぁ、と思わされる。
 この本の収録作品で、気に入ったものを一つ選ぶとしたら「サマーキャンプへようこそ」だろうか。アウトドア活動などしたこともない父親と息子がキャンプに出かけ、まるで馴染めず途中で引き上げてしまう話だ。「一つ選ぶなら」と言ってしまったけれど、「エビスくん」も捨てがたい。

卒業ホームラン: 自選短編集・男子編 (新潮文庫)



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百円の恋

 安藤サクラ新井浩文が共演した2014年公開の映画「百円の恋」を観た。
 タイトルをみると、恋愛ものに思えるけれど、ラブストーリーという枠には収まらない要素が、映画全体に満ちあふれていた。
 恋愛も家族愛も夢も仕事も無気力も怠惰も、どれか一つが人生の全てになることはなく、それらの幾つかが、或いは全てが呼応しあって、人ひとりの人生が進んでいくのだと感じた。こうして言葉にすると当たり前のことのようだけれど、たとえば「結婚はこりごり、これからは仕事に生きよう」などと思ったところで、仕事が生活のすべてには、きっとなり得ないのだ。よく「何かを手に入れるには、何かを捨てなければならない」と言うけれど、同じ意味て「何かを捨てたいなら、何かを引き受けなければならない」とも言えるのだろう。
 映画というものが、言葉にできない様々なもの、あえて言うなら自分や誰かや世の中に対する歯痒さやら疑問やら欲望やらを表現するものだとしたら、「百円の恋」は存分に表現していた。こういう映画をもっと観たいと思う。
 
百円の恋 [DVD]



ギルバートグレイプ

 レオナルド・ディカプリオジョニー・デップが共演した1993年のアメリカ映画「ギルバートグレイプ」を観た。
 タイトルに覚えがあり、昔、と言えるくらい以前に誰かが見るべき映画だと言っていたのを思い出してかりてきた。特に配役情報など気にせず見始めたので、最初の30分くらい、これはディカプリオに見えるけど、まさか本当にディカプリオだろうか、と疑っていた。そのくらい最近のディカプリオとは違って見えた。などと胸を張って言えるほどには最近のディカプリオの作品を観ていないのだが、彼に対する私の勝手なイメージとは違っていた。役柄や年齢のせいもあるかもしれないけれど、この作品の中では彼はディカプリオではなく、登場人物のアーニーでしかなかった。この若さで既に俳優の真骨頂を見せてくれたように感じる。
 この映画を観て思ったのは、人はみな自分の暮らしは当たり前の日々になってしまうから、そのドラマ性にはなかなか気づかないのではないか、ということだ。人はどう頑張っても自分以外の者にはなれない。自分の人生を生きるしかないのに、その人生さえ自分ではどうしようもない場面が多い。多いどころか実はその連続なのかもしれないし、どうしようもなく進んでいくように見えても全ては自分が原因とも言えるかもしれない。本当に解釈次第だし、ものは言い様だ。そして、今こう思う。「自分の人生を生きるのだ」という言葉の真意は「この世に一つしかない自分の人生を生きているということを、自覚しながら生きるのだ」なのではないか、と。
 「生きよう」と思って産まれてきた人などひとりもいないだろうと思うと、少しだけ世の中が優しく見える気がする。

ギルバート・グレイプ [DVD]



ブルージャスミン

 2013年のウディ・アレン監督のアメリカ映画「ブルージャスミン」を観た。
 主人公は、ジャスミンに違いないのだけれど、ジャスミンとその妹、の二人の対比がとても色濃く、妹もまた主人公だった気がする。
 着るもの食べるもの使うもの、すべて高級品に囲まれた生活をしているからといって、それだけで幸せとは限らない。どんな上等なものも、物でしかない。そうした物たちは後回しにしても、夫婦の関係や家族の絆が上等であれば、人からどう見えようときっと幸せなのだ。そんなことは当たり前のようだけれど、夫婦であれ家族てあれ友だちであれ、人と人の関係というのは、いろいろと難しいものがある。年月や状況によっても変化する。血が繋がっていれば絆は強いのかもしれないけれど、血縁に絞られているだけで心からの尊敬や相手を尊重する気持ちが薄ければ上等な関係とは言い難いように思う。でも、相手のことをただ好きでさえいれば、尊敬や尊重は自然と同席してくれるのではないかとも思う。いや逆かもしれない。尊敬や尊重が先になければ、その気持ちの正体は「好き」ではないのかもしれない。結局のところ、どんな気持ちを「好き」と呼ぶかは、人それぞれの部分もあるだろう。
 この映画は「身の丈に合った生活」という言葉も思い出させた。自分の身の丈をどう捉えるかも、自分次第ではある。

 
ブルージャスミン [DVD]



キッチン (吉本ばなな)

 図書館に行く時間が取れず、少ない手持ちの文庫本の中から、吉本ばななの「キッチン」を選んで読んだ。20年以上前に購入した本で、その当時一度読んだきりではないかと思うのだが、読み始めるとまるで昨日読み終えたばかりかのように、次々と既知の文章が現れて、驚いた。たとえこの本が好きだったとしても、こんなにはっきり覚えているものだろうかと。若い時に受けた印象というのは、それだけ根深いということか、それとも忘れているだけで実は何度か繰り返し読んでいたからか、またはこの作家の文体によるものなのか。この三つ目はたった今思い浮かんだのだけれど、そんな気がする。文体か何か、この作品によるものかもしれない。
 この本の文章は、なんだかすぐ目の前で語られている感じがするのだ。言い換えれば語り手と、読み手である自分の距離が、とても近い。
 そういえば解説に、語り手と読み手についての件があったなと気になって、今確かめたので抜粋する。
 [吉本ばななの小説は、あらゆる点でこれまでの小説の文章の常識を超えている。(中略) 随所で語り手としての「私」が、突然、「です」「ます」体で読者に話しかけてくる。最初は何だと読者は思う。しかし読んでいるうちにそれに慣れてくるだけでなく、ふつうの小説では味わえない、作品や人物との親密で快いコミュニケーションの体験を味わう。語り手の「私」は、作中人物の「私」と読者の間に立って、(中略)読者に親しく話しかけ、物語と読者の間をうまくつないでくれるのだ。] 
 だから、近くに感じた、他の小説とは違う繋がり方を、読み手である私自身がした、ということか。
 小説の解説は、読む必要のないもののように普段感じている。その作品を自分なりに解釈して自分なりに味わえればそれで満足だから。でも、そこに解説があれば読んでしまうのだが。 
 この本は解説まで含めて、読者に対しての立ち位置、のようなものが、他の小説とは違うのかもしれない。
 
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キッチン (福武文庫)