映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

ナミヤ雑貨店の奇蹟

 2017年公開の映画「ナミヤ雑貨店の奇蹟 」を観た。 
 この作品では手紙が大切なモチーフになっていて、32年という時空を越えて手紙のやり取りが行われる。
 そして、そのやり取りには2つのパターンがあり、過去から来た悩み相談の手紙に対して、その32年後を生きる若者が、相談者にとっての未来をある程度知った上でアドバイスを与える、という場合がひとつ。もうひとつは、それまで悩み相談に答えてきた店主が、死の間際に、相談者たちのその後の人生について書かれた未来からの手紙を受けとる、というものだ。
 前者にはどこかSFの匂いを感じるのに対して、後者にはノスタルジックな印象が残った。途中、人の運命なんて簡単に変わるものではない、というようなことを主人公の一人が、口にする。確かに、手紙が人の運命を左右することはないかもしれないけれど、手紙が人の感情を左右することはきっとあるだろう。
 ふと気づいたのだが、学校行事などで、未来の自分に手紙を書く、ということはあっても、過去の自分に手紙を書くという機会はないように思う。過去を振り返るより未来について考える方が前向きに思えるかもしれないけれど、前向きに生きるためには、自を信じる気持ちが必要だし、それを持つためには過去の自分を肯定することが必要な気がする。
 脈絡のない文章になったが、こ映画は、東野圭吾の小説が原作となっている。東野圭吾作品の映画といえば、「容疑者Xの献身」が忘れられない。世の中に傑作と呼ばれる作品は幾つもあるけれど、観る側一人ひとりにとっての傑作は、そう多くはないだろう。とはいえ映画を楽しむ者にとっては、傑作も秀作も大作も、みな愛すべき作品である。

ナミヤ雑貨店の奇蹟 [DVD]



 




たった一人のオリンピック (山際淳司) ~NHKラジオ文芸館~

 最近は落ち着いて本を読む時間が取れなかったこともあり、今夜のNHKラジオの、「ラジオ文芸館」を楽しみにしていた。
 読まれたのは山際淳司作「たった一人のオリンピック」 
 最初に、この作品がノンフィクションであることが告げられた。つまり実話で、タイトル通り、たったひとりでオリンピックへの出場を目指した若者の話だと知り、冒頭から全身を耳にして聞き入った。たったひとりでオリンピックを目指したというのだから、この若者がとてつもなく熱い人かというと、そうでもないような、どこか冷めた目で自分の人生を見ているような印象を受けた。
 名のある進学校で東大を目指して二浪し、三年目も東大には合格せず入った私大で留年しそうになったとき、彼はオリンピックで金メダルを取ろうと思い付くのだから、もともとは大学受験を失敗したという挫折から、金メダルへの挑戦が生まれたのだろう。人生を変えたいと強く思うのは、自分自身に対して「こんなはずではなかった」と、どうしようもなく感じるときなのではないかと思う。「周りの人たちは昨日と同じように歩いていて、その中で立ち止まれば、それだけで人は一匹狼だろう」という作者の言葉がなんだか沁みた。たとえ孤立しようと、自分で人生を変えたいと思って行動に移すことは、悪いことではないはずだ。その行動に必要な精神力や冷静さも、この人は存分に持っていたと思える。結果的に5年以上も、オリンピックで戦うための練習を自分ひとりで、コーチにも頼らず続け、予定通り代表にも選ばれたのだから。
 そして、代表として出場するはずだったオリンピックに、日本は不参加を決める。
 ノンフィクションというジャンルに、また、山際淳司という作家にも、にわかに興味が湧いている。


スローカーブを、もう一球 (角川文庫)
江夏の21球 (角川新書)





ふたりの名前 (石田衣良) ~NHKラジオ~

 昨日の深夜のNHKラジオで、石田衣良の短編「ふたりの名前」を聞いた。短編という形態だからこそ、この物語の魅力が際立っているように感じた。
 幾つかの手痛い別れを経験済みの、大人の恋人同士が、自分のものには自分の名前(イニシャル)を書く、というルールのもとに同棲生活を送っている。だから、家の中のあらゆるものに所有者の名前が、つまり彼か彼女のどちらかの名前が記されている。この状態は一見、冷めた関係に見えなくもないけれど、この二人にとっては、お互いに相手を尊重するための、相手との距離の取り方なのだ。恋人でも夫婦でも、どんなに仲のいい親友でも、相手は他者である。他者である以上、自分との距離は存在する。相手を理解することと、距離を縮めることは同義ではないだろう。それに相手との適切な距離は、その時々によっていく通りにも変化する。
 この物語の主人公二人は、そうした変化の中で、自分たちが決めたルールが通用しない状況に出会い、それまでの殻を破ったのだと思う。
 人と人のつながりや、相手に対する思いは理屈ではなく、言葉で表すことも難しい。目にもみえず、どうにも言い表せないようなことを、この短編は結末で伝えていた。


*「ふたりの名前」は「1ポンドの悲しみ」に収録されています。
1ポンドの悲しみ



乙女ちゃん (佐野洋子)

 佐野洋子さんを初めて知ったのは、やはり「100万回生きたねこ 」だった。「100万回生きたねこ」は私にとって再読回数最多の本ではないだろうか。もう30年以上前だけれど、買って帰った数日後には友達に「10回読んで10回泣いた」、とかなんとか言った覚えがある。 それからあとも長年に渡って繰り返し読んだし、他の作品にも触れてきた。
 それなのに、というべきか、だから、というべきか、エッセイは読んだことがあっても、ずっと絵本作家だと思っていて、物語だけの本を出していたことを最近まで知らなかった。
 この「乙女ちゃん」には29 の話が収まっていて、どれも読んでいるとあざやかな絵が浮かんでくる。小説家の書いた小説だって場面が映像となって浮かんでくるものは多いけれど、というか、場面を想像しながら読むのが普通の読み方かもしれないけれど、佐野さんの作品は浮かんでくる絵がやけに力強いのだ。言葉の使い方からくるものなのか、内容そのもののせいなのか、どちらもあって初めて成り立っ力強さなのか。もしかすると佐野さんの生き方そのものが滲み出ているだけなのかもしれない。力強いし、生々しいとも言えそうな気がする。動物が服を着てしゃべっていたり、現実にはあり得ないことや想像もできないような場面を通して、生きることの生々しさを感じさせるなんて、この人は一体どういう感受性の持ち主だったのかと思ってしまう。本当にすてき。 
 私も、自分なりに力強く、生々しく、生きてみたいものだ、と思わせてくれる。
 この本にはあとがきがついていた。あとがきらしく、力強い絵は登場しないのに、これもまた楽しくおもしろく、そして深かった。
乙女ちゃん―愛と幻想の小さな物語

クリック ~もしも昨日が選べたら~

 フランク・コラチ監督、アダム・サンドラー主演の2006年のアメリカ映画「クリック」を観た。
 「もしも昨日が選べたら」という邦題がついているけれど、過去を変えたりするわけではなく、不快な時間を早送りしたり、過去を見に行ったり、今この瞬間を一時停止して自分だけが動けたりする状況で、主人公が一旦自分の人生を最後まで経験する、というストーリーだった。
 夫婦喧嘩や仕事に忙殺される時間、出世したり成功するまでの時間を早送りすれば、嫌なことや苦労を経験せずにすむので主人公はいろんな場面をどんどん早送りしてしまう。でもそれでしあわせかというと全くそんなことはない。味気ない人生があっという間に終わっていくだけ、ということになる。よく、悲しみがあるから喜びがあるとか、苦労がなければ幸せもないというようなことが言われるけれど、まさにそれを具現化した映画だった。苦労を省いてしまったら、しあわせはしあわせでなくなる。その構図は理解できる。単純にそうだろうと思う。でも今ふと思ったのだけれど、だとするとしあわせとは相対的なもの、ということだろうか。苦労や不幸、不運などと引き比べて初めて、しあわせが、存在するのだろうか。負の要素を、引き合いに出さないと幸せに気づけないのだとしたら、なんだか寂しい気がする。そういうことではないのかもしれないが。
 何がどうであれきっと、心の豊かな人というのは、相対的でない絶対的なしあわせをたくさん知っているのではないだろうか。そして心豊かな人は、どんな時間も早送りしたいなどとは思わないのだろう。


もしも昨日が選べたら (字幕版)



三年目 (山本周五郎) ~NHK ラジオ文芸館~

 深夜のNHKラジオで山本周五郎の短編「三年目」が読まれた。
 数多ある周五郎作品のうち、ほんのいくつかを読んだことがあるだけだけれど、いつも結末が深く深く胸に沈み込んでくるような、物語の終わりとともに何が絶対的なものを手渡されるような感じがある。
 今日聞いた「三年目」も、やはりそういった作品だった。
 小説の題材やあらすじは違っても、かならずと言っていいほど最後に手渡されるものの感触は決まっていて、それなのに毎回新鮮な気持ちでそれを受け取れるのはなぜだろう。
 周五郎作品に触れると、人の愚かさは負の要素ではなく、愚かだからこそ真摯に生きることができるのだと言われているような気がする。清く賢く生きている人には、愚直な一面があるものなのかもしれない。周五郎の描く人物は、そんなふうに感じさせてくれる。

山本周五郎中短篇秀作選集 2 惑う
雨あがる―山本周五郎短篇傑作選


はじまりへの旅

 2016年のアメリカ映画で、日本では2017年公開の「はじまりへの旅」(監督、マット・ロス 主演、ヴィゴ・モーテンセン)を観た。
 ツタヤで見つけたとき「普通ってなんだろう」というコピーとカラフルなジャケット(登場人物たちのカラフルな服装)になんとなく引かれて借りてみた。
 いつの頃からか、人の数だけ常識(普通)がある、と思っているし、「普通」という言葉は単に「多数派」を指すのだろうと感じてもいるけれど、改めて問われたら「ホントにね、普通ってなんなんだろうね」と言いたい気もする。
 この映画では森で暮らす家族が、食べるために狩りをするのだが、今の時代そんなふうに暮らしている人はまずいないから普通じゃないと思われている。でも大昔、人類が狩りをして生活していた時代ならそれが普通だったわけで、こう考えると、何が普通なのかを決めるのは「時代」なのかもしれない、と思える。たとえば戦争中の「普通」(常識)と今の世の中の「普通」(常識)がまるで違うなら、ある程度は「時代」が「普通」を作っているに違いない。そうであるならば、普通とは変化していくものであり、実際には何が普通かなんて誰にも決められないのではないだろうか。こう言ってしまうのは言い過ぎだろうか。
 話を映画に戻すと、父親のセリフ(字幕)に「悪意のない間違いだった」というのがあって、その瞬間、少し驚いた。悪意のある間違いがあるのだろうか、と。悪意があればそれは故意なわけで、間違いではなく企みだったり裏切りだったりするのではないだろうか。英語を日本語に訳す上での難しさかもしれないし、敢えてそう言ったのかもしれないが。そして深く頷いたセリフもあった。それは「人間は言葉より行動で決まる」というのと「希望はないと思うと確実になくなる」だ。哲学者チョムスキーの引用として出てきた。忘れたくない言葉になった。
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空飛ぶタイヤ (池井戸潤)

 同じ作家ばかり読んでいないで、たまには毛色の違ったものを、と考えながら図書館の中を歩いていたらこの本が目にとまり、これは大ヒットしたエンターテイメント小説のはず、と思って手に取った。
 文庫本としては厚みがあり、しかも上・下巻の二冊に分かれていたので超大作に見えるし、実際読むのに時間がかかったけれど、読後感としてすごく長い話だったという印象はない。やはり、先の展開に引っ張られるようにして次々とページを繰っていたせいだろうか。普段より読むスピードが速かったような気もする。登場人物がとても多く、さらにはその誰もが場面場面で主人公になっていて(私にはそう思えて)作家の力量、などという言葉を私が使っていいのかわからないけれど、おそらくはそういったものを感じた。そして、これだけの物語を書くには、いろいろな分野の専門的な知識がどんなにか必要だっただろうと思い、そんな自分に少し嫌気がさした。余計なことを考えず、ただ素直に楽しめばいいのに。
 今日ツタヤに行ったら、この「空飛ぶタイヤ」の予告編が繰り返し流れていた。なるほど、映画化しがいのあるドラマに違いない。


空飛ぶタイヤ 上下合本版
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最果てアーケード (小川洋子)

 短編集の形をしているけけれど、すべてが一つのアーケードに纏わる話である。と、述べた途端に、いや長編小説として書かれたのではと思えてきた。どちらであろうと、ストーリー性に頼らない小川洋子の世界にまた出会えた。
 この作家の描写の前では、筋書きなんて必要ないような気がするけれど、物語はちゃんと流れていく。おそらく人には見落とされがちな、ひっそりと息をしている時間や空間を、どうしてこんなに細やかに掬い上げることができるのだろう。
 小川洋子の物語には、死が登場する確率が高い、と思う。「貴婦人A の蘇生」も「猫を抱いて像と泳ぐ」も「ブラフマンの埋葬」も最後に
主人公が死んでしまう。(ブラフマンは主人公ではないのかもしれないが) 主人公以外の死も、いろいろな作品に出てくる。「沈黙博物館」では何人もの人の死がでてくるが、その一つ一つが丁寧に取り上げられていた。この本の中にもいくつかの死が登場する。こうして振り返ってみると、どの死も、悲しみではなく気高さのようなものに彩られていた、という気がする。だからだろうか、死が生の一部だということを、感じさせてくれる。     
最果てアーケード (講談社文庫)




     

さようなら、コタツ (中島京子)

 面白いタイトルだなと思っていた。
 2003年にデビューした作家で、この短編集の作品のほとんどが2004年初出となっているから、かなり初期の頃の作品だ。
 最初に短い前書きがついていて、短編集だろうと長編だろうと、物語のプロローグとしてではなく、小説に前書きがついているというのはめずらしく、これもまた面白かった。
 小説を読むとき、読者は非日常を体験する。体験が言い過ぎなら、疑似体験、だろうか。もっと譲って、垣間見る、でもいいけれど、物語の中に描かれる日常や、ハプニングは、私にとってはどれも非日常である。その非日常に触れたあとで思う。日常は変化する。代わり映えのしない毎日を過ごしていたとしても、いつか必ず変化する。そして変化のスパンは意外と短い。自覚なく変化していることもありそうに思う。望んでの変化もあるだろうけれど、望まぬ変化もやってくる。その時にどう折り合いをつけるか、そんなことを知らず知らずのうちに小説に教えてもらっているかもしれない。
 
さようなら、コタツ




たたら侍

 2017年公開で錦織良成監督、脚本の「たたら侍」を借りて観た。 
 全編を通して映像がとても美しく、自然の持つ広大で繊細な霊気、とでも言いたくなるようなものが静かに伝わってきた。そのせいで人間の浅はかさや生きるということのはかなさを感じさせられた気がする。
 正直なところ、主人公の生き方や物語としての展開、というか流れというか結末も含めて、それらをどう解釈すればいいのか、よくわからなかった。でも芸術作品というのは、鑑賞した人が好きなように解釈していいものだろうし、だからこそ解釈しきれずに終わることもあるのだと思う。
 以前、何かのインタビューで宮崎駿監督がメッセージ性について問われ「メッセージを込めようと思っては作れない。自分では捕まえられないものを追いかけている。自分で捕まえられるものなんてろくなものじゃない」と言っていたのをまた思い出した。
たたら侍 DVD(通常版)






her / 世界でひとつの彼女

 2013年公開のアメリカ映画「her / 世界でひとつの彼女」を観た。
 妻から離婚を迫られている主人公の男性がコンピューターのオペレーティングシステムに、つまりAIに本気で恋をするという物語で、面白かった。考えさせられるという意味で面白かった。
 たとえばネットで知り合った人と会うことなく、顔もしらないままネット上のやり取りだけで相手を好きになり、恋をすることがあり得るなら、人工知能との恋愛も可能なのではないだろうか。ただ、この場合、恋愛から結婚へと発展することはないわけだが、結婚しないで一生恋愛関係でいたいと望む人には、かえって理想の相手となるのかもしれない。
 主人公の親友の「恋愛は社会的に容認された狂気」という言葉が印象的だった。
  
her/世界でひとつの彼女 [DVD]

 




ハート・オブ・ウーマン



 民放テレビで深夜に放送していた「ハート・オブ・ウーマン」を観た。久しぶりに洋画を観た気がする。テンポ良く物語が展開し、楽しめた。
  主人公の男性が女性の考えを読めるようになってしまい、最初は少し混乱するのだが、最後にはそのことがいい結果を招くことになり、めでたしめでたしで気持ちよかった。
 途中、主人公の上司役のヘレン・ハントが、夫と別れた理由を話していて「私は何でも率直に言ってしまうから、それが嫌だったみたい」というようなことを口にする場面があった。吹き替えだったから、率直と訳されたのがどんな単語だったかわからないが、ズバズバものを言うという意味かもしれない。でも、たとえズバズバではなくてもただ正直にものを言うことが、相手にとって迷惑になることもあるのだろうと思わされた。私は嘘や駆け引きが苦手なせいか、バカみたいについ何でも正直に、時には言わなくていいことまで喋ってしまったりするが、少し前にラジオで「言葉というのは、本心を隠すために使っているように思う」と言っている人がいて、なるほど言葉には確かにそういう側面があると感じてとても納得した。
 人の心や考えを読むことは不可能にも思えるけれど、察しのいい人というのはいる。よく気が利く人と言い換えてもいいかもしれない。周りから、察しが悪いとか気が利かないとか思われることはあっても、せめてバカみたいとは思われないようにしたいものだ。
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佐野洋子の動物ものがたり (佐野洋子)



初版は2018年10月29日、つまり最近だけれど、収録されている6篇のうち5篇は1989年に「図書新聞」に連載されたものとの断り書きがある。連載時のタイトルは「佐野洋子の動物図鑑」。 
 登場するのは動物ばかりだが、体中に毛がはえていたり耳が長かったりしっぽがふさふさだったりする以外は人と変わらない。動物の姿を借りることで、人間の本能や個々の、或いは男女の差異がかえって生々しく迫ってる感じがした。人間も動物に違いないということも合わせて。
  さすが、佐野洋子である。
   
佐野洋子の動物ものがたり

墨東綺譚 (永井荷風)

 




明治から大正、昭和と活躍した名のある作家なので、一度読んでみたいと思って借りてきたのたが、文体、というのだろうか、言葉遣いというか言い回しというか、最後の方は漢文の引用もあって、私にとっては難しかったようだ。それでも前半はその難しさをあまり感じず、いつものようにすらすら読んでいたので、どのあたりから意味がすんなり入ってこなくなったのか、自分でもよくわからない。内容が難しかったとは思わないが、気づいていないだけで実は内容の理解が追いつかなかったのだろうか。
 登場人物のセリフの中に「言文一致」という言葉が出てきたときに、その昔(多分20年くらい前)、森絵都の本を初めて読んで驚いたことを思い出した。その時は小説を読むのがかなり久しぶりだったので、今時の小説は地の文にまでこんなに話し言葉が使われているのかと目をみはった覚えがある。
 小説は、何を書くかと同じくらいに、どう書くかがその作品をその作品にするのだなと改めて感じた。
墨東綺譚 (角川文庫)