映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

卒業ホームラン (重松清)

 重松清の短編集「卒業ホームラン」を読んだ。
 この作家の作品はデビュー作の「ビフォア・ラン」、直木賞を受賞した「ビタミンF」のほか「流星ワゴン」「きみの友だち」を読んだことごある。どの作品もいつも、文章そのものが、というのか、作品全体がと言った方がいいのか、とても優しい。そのことに、この短編集を読んでみて改めて気づいた。物語の内容はそれぞれみんな違うし、母子家庭やいじめなど、一見寂しかったり悲しかったりするような状況が語られていたとしても、なぜだかいつも、日だまりに守られながら読んでいるような気持ちでページをめくっていたように思う。主人公や登場人物が、強さと弱さを表裏一体のように合わせ持っているのはとても自然なことで、同じように温かさと冷たさや、頑固さと柔軟さ、明るさと暗さも、同時に持っているのが人間で、それは矛盾ではないのだと教えてくれているような気がする。家族がテーマの作家だと言われているかもしれないが、家族や友だちを題材にして人間を描いているなぁ、と思わされる。
 この本の収録作品で、気に入ったものを一つ選ぶとしたら「サマーキャンプへようこそ」だろうか。アウトドア活動などしたこともない父親と息子がキャンプに出かけ、まるで馴染めず途中で引き上げてしまう話だ。「一つ選ぶなら」と言ってしまったけれど、「エビスくん」も捨てがたい。

卒業ホームラン: 自選短編集・男子編 (新潮文庫)



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百円の恋

 安藤サクラ新井浩文が共演した2014年公開の映画「百円の恋」を観た。
 タイトルをみると、恋愛ものに思えるけれど、ラブストーリーという枠には収まらない要素が、映画全体に満ちあふれていた。
 恋愛も家族愛も夢も仕事も無気力も怠惰も、どれか一つが人生の全てになることはなく、それらの幾つかが、或いは全てが呼応しあって、人ひとりの人生が進んでいくのだと感じた。こうして言葉にすると当たり前のことのようだけれど、たとえば「結婚はこりごり、これからは仕事に生きよう」などと思ったところで、仕事が生活のすべてには、きっとなり得ないのだ。よく「何かを手に入れるには、何かを捨てなければならない」と言うけれど、同じ意味て「何かを捨てたいなら、何かを引き受けなければならない」とも言えるのだろう。
 映画というものが、言葉にできない様々なもの、あえて言うなら自分や誰かや世の中に対する歯痒さやら疑問やら欲望やらを表現するものだとしたら、「百円の恋」は存分に表現していた。こういう映画をもっと観たいと思う。
 
百円の恋 [DVD]



ギルバートグレイプ

 レオナルド・ディカプリオジョニー・デップが共演した1993年のアメリカ映画「ギルバートグレイプ」を観た。
 タイトルに覚えがあり、昔、と言えるくらい以前に誰かが見るべき映画だと言っていたのを思い出してかりてきた。特に配役情報など気にせず見始めたので、最初の30分くらい、これはディカプリオに見えるけど、まさか本当にディカプリオだろうか、と疑っていた。そのくらい最近のディカプリオとは違って見えた。などと胸を張って言えるほどには最近のディカプリオの作品を観ていないのだが、彼に対する私の勝手なイメージとは違っていた。役柄や年齢のせいもあるかもしれないけれど、この作品の中では彼はディカプリオではなく、登場人物のアーニーでしかなかった。この若さで既に俳優の真骨頂を見せてくれたように感じる。
 この映画を観て思ったのは、人はみな自分の暮らしは当たり前の日々になってしまうから、そのドラマ性にはなかなか気づかないのではないか、ということだ。人はどう頑張っても自分以外の者にはなれない。自分の人生を生きるしかないのに、その人生さえ自分ではどうしようもない場面が多い。多いどころか実はその連続なのかもしれないし、どうしようもなく進んでいくように見えても全ては自分が原因とも言えるかもしれない。本当に解釈次第だし、ものは言い様だ。そして、今こう思う。「自分の人生を生きるのだ」という言葉の真意は「この世に一つしかない自分の人生を生きているということを、自覚しながら生きるのだ」なのではないか、と。
 「生きよう」と思って産まれてきた人などひとりもいないだろうと思うと、少しだけ世の中が優しく見える気がする。

ギルバート・グレイプ [DVD]



ブルージャスミン

 2013年のウディ・アレン監督のアメリカ映画「ブルージャスミン」を観た。
 主人公は、ジャスミンに違いないのだけれど、ジャスミンとその妹、の二人の対比がとても色濃く、妹もまた主人公だった気がする。
 着るもの食べるもの使うもの、すべて高級品に囲まれた生活をしているからといって、それだけで幸せとは限らない。どんな上等なものも、物でしかない。そうした物たちは後回しにしても、夫婦の関係や家族の絆が上等であれば、人からどう見えようときっと幸せなのだ。そんなことは当たり前のようだけれど、夫婦であれ家族てあれ友だちであれ、人と人の関係というのは、いろいろと難しいものがある。年月や状況によっても変化する。血が繋がっていれば絆は強いのかもしれないけれど、血縁に絞られているだけで心からの尊敬や相手を尊重する気持ちが薄ければ上等な関係とは言い難いように思う。でも、相手のことをただ好きでさえいれば、尊敬や尊重は自然と同席してくれるのではないかとも思う。いや逆かもしれない。尊敬や尊重が先になければ、その気持ちの正体は「好き」ではないのかもしれない。結局のところ、どんな気持ちを「好き」と呼ぶかは、人それぞれの部分もあるだろう。
 この映画は「身の丈に合った生活」という言葉も思い出させた。自分の身の丈をどう捉えるかも、自分次第ではある。

 
ブルージャスミン [DVD]



キッチン (吉本ばなな)

 図書館に行く時間が取れず、少ない手持ちの文庫本の中から、吉本ばななの「キッチン」を選んで読んだ。20年以上前に購入した本で、その当時一度読んだきりではないかと思うのだが、読み始めるとまるで昨日読み終えたばかりかのように、次々と既知の文章が現れて、驚いた。たとえこの本が好きだったとしても、こんなにはっきり覚えているものだろうかと。若い時に受けた印象というのは、それだけ根深いということか、それとも忘れているだけで実は何度か繰り返し読んでいたからか、またはこの作家の文体によるものなのか。この三つ目はたった今思い浮かんだのだけれど、そんな気がする。文体か何か、この作品によるものかもしれない。
 この本の文章は、なんだかすぐ目の前で語られている感じがするのだ。言い換えれば語り手と、読み手である自分の距離が、とても近い。
 そういえば解説に、語り手と読み手についての件があったなと気になって、今確かめたので抜粋する。
 [吉本ばななの小説は、あらゆる点でこれまでの小説の文章の常識を超えている。(中略) 随所で語り手としての「私」が、突然、「です」「ます」体で読者に話しかけてくる。最初は何だと読者は思う。しかし読んでいるうちにそれに慣れてくるだけでなく、ふつうの小説では味わえない、作品や人物との親密で快いコミュニケーションの体験を味わう。語り手の「私」は、作中人物の「私」と読者の間に立って、(中略)読者に親しく話しかけ、物語と読者の間をうまくつないでくれるのだ。] 
 だから、近くに感じた、他の小説とは違う繋がり方を、読み手である私自身がした、ということか。
 小説の解説は、読む必要のないもののように普段感じている。その作品を自分なりに解釈して自分なりに味わえればそれで満足だから。でも、そこに解説があれば読んでしまうのだが。 
 この本は解説まで含めて、読者に対しての立ち位置、のようなものが、他の小説とは違うのかもしれない。
 
***作品について詳しくはこちら→キッチン (角川文庫) (アマゾンに飛びます)


キッチン (福武文庫)



ナミヤ雑貨店の奇蹟

 2017年公開の映画「ナミヤ雑貨店の奇蹟 」を観た。 
 この作品では手紙が大切なモチーフになっていて、32年という時空を越えて手紙のやり取りが行われる。
 そして、そのやり取りには2つのパターンがあり、過去から来た悩み相談の手紙に対して、その32年後を生きる若者が、相談者にとっての未来をある程度知った上でアドバイスを与える、という場合がひとつ。もうひとつは、それまで悩み相談に答えてきた店主が、死の間際に、相談者たちのその後の人生について書かれた未来からの手紙を受けとる、というものだ。
 前者にはどこかSFの匂いを感じるのに対して、後者にはノスタルジックな印象が残った。途中、人の運命なんて簡単に変わるものではない、というようなことを主人公の一人が、口にする。確かに、手紙が人の運命を左右することはないかもしれないけれど、手紙が人の感情を左右することはきっとあるだろう。
 ふと気づいたのだが、学校行事などで、未来の自分に手紙を書く、ということはあっても、過去の自分に手紙を書くという機会はないように思う。過去を振り返るより未来について考える方が前向きに思えるかもしれないけれど、前向きに生きるためには、自を信じる気持ちが必要だし、それを持つためには過去の自分を肯定することが必要な気がする。
 脈絡のない文章になったが、こ映画は、東野圭吾の小説が原作となっている。東野圭吾作品の映画といえば、「容疑者Xの献身」が忘れられない。世の中に傑作と呼ばれる作品は幾つもあるけれど、観る側一人ひとりにとっての傑作は、そう多くはないだろう。とはいえ映画を楽しむ者にとっては、傑作も秀作も大作も、みな愛すべき作品である。

ナミヤ雑貨店の奇蹟 [DVD]



 




たった一人のオリンピック (山際淳司) ~NHKラジオ文芸館~

 最近は落ち着いて本を読む時間が取れなかったこともあり、今夜のNHKラジオの、「ラジオ文芸館」を楽しみにしていた。
 読まれたのは山際淳司作「たった一人のオリンピック」 
 最初に、この作品がノンフィクションであることが告げられた。つまり実話で、タイトル通り、たったひとりでオリンピックへの出場を目指した若者の話だと知り、冒頭から全身を耳にして聞き入った。たったひとりでオリンピックを目指したというのだから、この若者がとてつもなく熱い人かというと、そうでもないような、どこか冷めた目で自分の人生を見ているような印象を受けた。
 名のある進学校で東大を目指して二浪し、三年目も東大には合格せず入った私大で留年しそうになったとき、彼はオリンピックで金メダルを取ろうと思い付くのだから、もともとは大学受験を失敗したという挫折から、金メダルへの挑戦が生まれたのだろう。人生を変えたいと強く思うのは、自分自身に対して「こんなはずではなかった」と、どうしようもなく感じるときなのではないかと思う。「周りの人たちは昨日と同じように歩いていて、その中で立ち止まれば、それだけで人は一匹狼だろう」という作者の言葉がなんだか沁みた。たとえ孤立しようと、自分で人生を変えたいと思って行動に移すことは、悪いことではないはずだ。その行動に必要な精神力や冷静さも、この人は存分に持っていたと思える。結果的に5年以上も、オリンピックで戦うための練習を自分ひとりで、コーチにも頼らず続け、予定通り代表にも選ばれたのだから。
 そして、代表として出場するはずだったオリンピックに、日本は不参加を決める。
 ノンフィクションというジャンルに、また、山際淳司という作家にも、にわかに興味が湧いている。


スローカーブを、もう一球 (角川文庫)
江夏の21球 (角川新書)





ふたりの名前 (石田衣良) ~NHKラジオ~

 昨日の深夜のNHKラジオで、石田衣良の短編「ふたりの名前」を聞いた。短編という形態だからこそ、この物語の魅力が際立っているように感じた。
 幾つかの手痛い別れを経験済みの、大人の恋人同士が、自分のものには自分の名前(イニシャル)を書く、というルールのもとに同棲生活を送っている。だから、家の中のあらゆるものに所有者の名前が、つまり彼か彼女のどちらかの名前が記されている。この状態は一見、冷めた関係に見えなくもないけれど、この二人にとっては、お互いに相手を尊重するための、相手との距離の取り方なのだ。恋人でも夫婦でも、どんなに仲のいい親友でも、相手は他者である。他者である以上、自分との距離は存在する。相手を理解することと、距離を縮めることは同義ではないだろう。それに相手との適切な距離は、その時々によっていく通りにも変化する。
 この物語の主人公二人は、そうした変化の中で、自分たちが決めたルールが通用しない状況に出会い、それまでの殻を破ったのだと思う。
 人と人のつながりや、相手に対する思いは理屈ではなく、言葉で表すことも難しい。目にもみえず、どうにも言い表せないようなことを、この短編は結末で伝えていた。


*「ふたりの名前」は「1ポンドの悲しみ」に収録されています。
1ポンドの悲しみ



乙女ちゃん (佐野洋子)

 佐野洋子さんを初めて知ったのは、やはり「100万回生きたねこ 」だった。「100万回生きたねこ」は私にとって再読回数最多の本ではないだろうか。もう30年以上前だけれど、買って帰った数日後には友達に「10回読んで10回泣いた」、とかなんとか言った覚えがある。 それからあとも長年に渡って繰り返し読んだし、他の作品にも触れてきた。
 それなのに、というべきか、だから、というべきか、エッセイは読んだことがあっても、ずっと絵本作家だと思っていて、物語だけの本を出していたことを最近まで知らなかった。
 この「乙女ちゃん」には29 の話が収まっていて、どれも読んでいるとあざやかな絵が浮かんでくる。小説家の書いた小説だって場面が映像となって浮かんでくるものは多いけれど、というか、場面を想像しながら読むのが普通の読み方かもしれないけれど、佐野さんの作品は浮かんでくる絵がやけに力強いのだ。言葉の使い方からくるものなのか、内容そのもののせいなのか、どちらもあって初めて成り立っ力強さなのか。もしかすると佐野さんの生き方そのものが滲み出ているだけなのかもしれない。力強いし、生々しいとも言えそうな気がする。動物が服を着てしゃべっていたり、現実にはあり得ないことや想像もできないような場面を通して、生きることの生々しさを感じさせるなんて、この人は一体どういう感受性の持ち主だったのかと思ってしまう。本当にすてき。 
 私も、自分なりに力強く、生々しく、生きてみたいものだ、と思わせてくれる。
 この本にはあとがきがついていた。あとがきらしく、力強い絵は登場しないのに、これもまた楽しくおもしろく、そして深かった。
乙女ちゃん―愛と幻想の小さな物語

クリック ~もしも昨日が選べたら~

 フランク・コラチ監督、アダム・サンドラー主演の2006年のアメリカ映画「クリック」を観た。
 「もしも昨日が選べたら」という邦題がついているけれど、過去を変えたりするわけではなく、不快な時間を早送りしたり、過去を見に行ったり、今この瞬間を一時停止して自分だけが動けたりする状況で、主人公が一旦自分の人生を最後まで経験する、というストーリーだった。
 夫婦喧嘩や仕事に忙殺される時間、出世したり成功するまでの時間を早送りすれば、嫌なことや苦労を経験せずにすむので主人公はいろんな場面をどんどん早送りしてしまう。でもそれでしあわせかというと全くそんなことはない。味気ない人生があっという間に終わっていくだけ、ということになる。よく、悲しみがあるから喜びがあるとか、苦労がなければ幸せもないというようなことが言われるけれど、まさにそれを具現化した映画だった。苦労を省いてしまったら、しあわせはしあわせでなくなる。その構図は理解できる。単純にそうだろうと思う。でも今ふと思ったのだけれど、だとするとしあわせとは相対的なもの、ということだろうか。苦労や不幸、不運などと引き比べて初めて、しあわせが、存在するのだろうか。負の要素を、引き合いに出さないと幸せに気づけないのだとしたら、なんだか寂しい気がする。そういうことではないのかもしれないが。
 何がどうであれきっと、心の豊かな人というのは、相対的でない絶対的なしあわせをたくさん知っているのではないだろうか。そして心豊かな人は、どんな時間も早送りしたいなどとは思わないのだろう。


もしも昨日が選べたら (字幕版)



三年目 (山本周五郎) ~NHK ラジオ文芸館~

 深夜のNHKラジオで山本周五郎の短編「三年目」が読まれた。
 数多ある周五郎作品のうち、ほんのいくつかを読んだことがあるだけだけれど、いつも結末が深く深く胸に沈み込んでくるような、物語の終わりとともに何が絶対的なものを手渡されるような感じがある。
 今日聞いた「三年目」も、やはりそういった作品だった。
 小説の題材やあらすじは違っても、かならずと言っていいほど最後に手渡されるものの感触は決まっていて、それなのに毎回新鮮な気持ちでそれを受け取れるのはなぜだろう。
 周五郎作品に触れると、人の愚かさは負の要素ではなく、愚かだからこそ真摯に生きることができるのだと言われているような気がする。清く賢く生きている人には、愚直な一面があるものなのかもしれない。周五郎の描く人物は、そんなふうに感じさせてくれる。

山本周五郎中短篇秀作選集 2 惑う
雨あがる―山本周五郎短篇傑作選


はじまりへの旅

 2016年のアメリカ映画で、日本では2017年公開の「はじまりへの旅」(監督、マット・ロス 主演、ヴィゴ・モーテンセン)を観た。
 ツタヤで見つけたとき「普通ってなんだろう」というコピーとカラフルなジャケット(登場人物たちのカラフルな服装)になんとなく引かれて借りてみた。
 いつの頃からか、人の数だけ常識(普通)がある、と思っているし、「普通」という言葉は単に「多数派」を指すのだろうと感じてもいるけれど、改めて問われたら「ホントにね、普通ってなんなんだろうね」と言いたい気もする。
 この映画では森で暮らす家族が、食べるために狩りをするのだが、今の時代そんなふうに暮らしている人はまずいないから普通じゃないと思われている。でも大昔、人類が狩りをして生活していた時代ならそれが普通だったわけで、こう考えると、何が普通なのかを決めるのは「時代」なのかもしれない、と思える。たとえば戦争中の「普通」(常識)と今の世の中の「普通」(常識)がまるで違うなら、ある程度は「時代」が「普通」を作っているに違いない。そうであるならば、普通とは変化していくものであり、実際には何が普通かなんて誰にも決められないのではないだろうか。こう言ってしまうのは言い過ぎだろうか。
 話を映画に戻すと、父親のセリフ(字幕)に「悪意のない間違いだった」というのがあって、その瞬間、少し驚いた。悪意のある間違いがあるのだろうか、と。悪意があればそれは故意なわけで、間違いではなく企みだったり裏切りだったりするのではないだろうか。英語を日本語に訳す上での難しさかもしれないし、敢えてそう言ったのかもしれないが。そして深く頷いたセリフもあった。それは「人間は言葉より行動で決まる」というのと「希望はないと思うと確実になくなる」だ。哲学者チョムスキーの引用として出てきた。忘れたくない言葉になった。
はじまりへの旅 [DVD]



空飛ぶタイヤ (池井戸潤)

 同じ作家ばかり読んでいないで、たまには毛色の違ったものを、と考えながら図書館の中を歩いていたらこの本が目にとまり、これは大ヒットしたエンターテイメント小説のはず、と思って手に取った。
 文庫本としては厚みがあり、しかも上・下巻の二冊に分かれていたので超大作に見えるし、実際読むのに時間がかかったけれど、読後感としてすごく長い話だったという印象はない。やはり、先の展開に引っ張られるようにして次々とページを繰っていたせいだろうか。普段より読むスピードが速かったような気もする。登場人物がとても多く、さらにはその誰もが場面場面で主人公になっていて(私にはそう思えて)作家の力量、などという言葉を私が使っていいのかわからないけれど、おそらくはそういったものを感じた。そして、これだけの物語を書くには、いろいろな分野の専門的な知識がどんなにか必要だっただろうと思い、そんな自分に少し嫌気がさした。余計なことを考えず、ただ素直に楽しめばいいのに。
 今日ツタヤに行ったら、この「空飛ぶタイヤ」の予告編が繰り返し流れていた。なるほど、映画化しがいのあるドラマに違いない。


空飛ぶタイヤ 上下合本版
空飛ぶタイヤ [DVD]



最果てアーケード (小川洋子)

 短編集の形をしているけけれど、すべてが一つのアーケードに纏わる話である。と、述べた途端に、いや長編小説として書かれたのではと思えてきた。どちらであろうと、ストーリー性に頼らない小川洋子の世界にまた出会えた。
 この作家の描写の前では、筋書きなんて必要ないような気がするけれど、物語はちゃんと流れていく。おそらく人には見落とされがちな、ひっそりと息をしている時間や空間を、どうしてこんなに細やかに掬い上げることができるのだろう。
 小川洋子の物語には、死が登場する確率が高い、と思う。「貴婦人A の蘇生」も「猫を抱いて像と泳ぐ」も「ブラフマンの埋葬」も最後に
主人公が死んでしまう。(ブラフマンは主人公ではないのかもしれないが) 主人公以外の死も、いろいろな作品に出てくる。「沈黙博物館」では何人もの人の死がでてくるが、その一つ一つが丁寧に取り上げられていた。この本の中にもいくつかの死が登場する。こうして振り返ってみると、どの死も、悲しみではなく気高さのようなものに彩られていた、という気がする。だからだろうか、死が生の一部だということを、感じさせてくれる。     
最果てアーケード (講談社文庫)




     

さようなら、コタツ (中島京子)

 面白いタイトルだなと思っていた。
 2003年にデビューした作家で、この短編集の作品のほとんどが2004年初出となっているから、かなり初期の頃の作品だ。
 最初に短い前書きがついていて、短編集だろうと長編だろうと、物語のプロローグとしてではなく、小説に前書きがついているというのはめずらしく、これもまた面白かった。
 小説を読むとき、読者は非日常を体験する。体験が言い過ぎなら、疑似体験、だろうか。もっと譲って、垣間見る、でもいいけれど、物語の中に描かれる日常や、ハプニングは、私にとってはどれも非日常である。その非日常に触れたあとで思う。日常は変化する。代わり映えのしない毎日を過ごしていたとしても、いつか必ず変化する。そして変化のスパンは意外と短い。自覚なく変化していることもありそうに思う。望んでの変化もあるだろうけれど、望まぬ変化もやってくる。その時にどう折り合いをつけるか、そんなことを知らず知らずのうちに小説に教えてもらっているかもしれない。
 
さようなら、コタツ