映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

三度目の殺人

 2017年公開の是枝裕和監督作品、「三度目の殺人」を観た。
 タイトルに「殺人」とあるように、殺人事件を中心とした話で、是枝監督の他の作品とは少し毛色が違うと言えば言えそうにも思う。
 けれどある意味では「そして父になる」や「海よりもまだ深く」に描かれていたもの、それらの作品を通して伝わってきた何かと同様のものを、鑑賞後には感じとっていた気がする。おそらくそれは、事実、現実、真実といった言葉のどれにも当てはまらない人間の心情、なのではないかと思う。
 人は本当に一人一人違って、稀には「こんな人がいたのか」と目を見開きたくなるような相手もいるに違いない。自分とすっかり同じ価値観の相手など見つかるものではないのだろうけれど、それでも共感や共有や共存を望んで、それを可能にしてくれる誰かを、知らず知らず追い求めるのが人間なのかもしれない。
 もちろん、人は一人一人違って、いろいろな人間がいるのだから、そんなものを追い求めない人がいたっておかしくないのだけれど。



マドンナ (奥田英朗)

 奥田英朗の短編集「マドンナ」を読んだ。
 どの話も中間管理職の40代サラリーマンが主人公で、どの話も面白かった。
 表題作「マドンナ」の中で、何というか、考えさせられた箇所がある。夫婦が言い合いになり、妻が夫に「この独裁者、弱いものいじめ、能力主義者」と畳み掛ける場面だ。夫は「最初の二つはともかく、能力主義者で何が悪い」と言い返す。私も一瞬その夫の言葉に頷きそうになりながら、先を読んだ。妻はこう続ける。「能力がない奴は家で雑巾がけしてろ、外で働くのはおれたち有能な人間だ、そうやって決めつけるのが能力主義者」「やさしくないのよ。思いやりがないのよ。自分がもしも無能な男だったらどんな人生を送ってただろう、なんて想像したこともないのよ」
 妻のこの言葉に、私はオバケのQ太郎を思い出した。と言っても実際は、以前ラジオの深夜番組で、誰かがオバケのQ太郎について話していたことを思い出したのだ。その人はオバケのQ太郎のことを、何か仕事をするわけでもないし、特に誰かの役に立っているようでもなく、何かやっても失敗ばかりなのに、それならいない方がいいかというとそうでもないのだ、と言っていた。
 勉強でもスポーツでも仕事でも、うまくこなせる人、成績のいい人を有能とみなし、その反対の人を無能と捉え、さらには有能な人の方が価値があると考えるのが能力主義者だとすると、能力主義者は弱いものいじめの範疇にあるような気がしてくる。
 しかし、適材適所という言葉もあって、その人の能力に応じた場所に人員を配置するというのが能力主義なら、これは弱いものいじめにはならないような気がするが、どうなのだろう。その人の能力を誰がどう判断するか、が問題になりそうでもある。
 他者と引き比べるから、有能と無能の区別が生まれるのだろう。オバケのQ太郎には、失敗してもすぐ立ち直る能力や、友達のことを自分のことのように感じる能力があるし、誰だっていろんな能力を備えている。などと言うと、モノは言い様、ということになるのだろうか。
 なんだか「能力」という言葉が、魔物のように思えてくる。

マドンナ

マドンナ




運動靴と赤い金魚

 1997年のイラン映画「運動靴と赤い金魚」を観た。
 ツタヤでどれを観ようかとDVDをランダムに手に取っては棚に戻していたとき、ふと見ると、ジャケットに「隠れた名作」とあり、気になって借りてきた。イラン映画は初めてで、その意味での好奇心もあったように思う。
 描かれているのは一般庶民の生活で、主人公は子どもたちだった。兄が一足しかない妹の靴をなくしてしまい、これも一足しかない兄のボロボロの運動靴を二人で交代で使うことになる。親に言えば叱られると考え、このことは兄妹二人の秘密だ。その後、なくした靴が別の誰かに履かれていることを知ったときも、賞品の靴を狙って兄がマラソン大会に出たときも、それらのことは兄妹二人の秘密となる。靴をなくしたこと以外は、秘密にしようと約束したわけではないけれど、秘密を共有することが、この兄妹にとっては支え合うことになっていた気がする。世間一般に置き換えて考えると、秘密の内容によっては共有することで支え合うのではなく、足の引っ張り合いとか、何か良くないことを引き起こす場合もありそうで、世の中のすべての秘密が、人と人を温かくつなぐものならいいのに、と思ったりもする。子どもじみた発言かもしれないけれど、大人も子どもも心は自由なはずで、心の中では何を願ってもいいに違いない。
 この映画の最後に出てくる赤い金魚や、兄妹が息を吹きかけて飛ばすシャボン玉は、見ていると、そこにずっといてほしい、あってほしいと思えるものだった。そして、ただそこにいるだけでいい、あるだけでいい、と思える人や物の存在が、生活を、もっと言えば人生を、豊かにするのだろうと感じた。
 

運動靴と赤い金魚 [DVD]

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桜雨 (坂東眞砂子)

  坂東眞砂子著「桜雨」を読んだ。
 文庫のカバーに、この作品で1996年の島清恋愛文学賞授賞とある。その翌年には別の作品で直木賞を授賞した作家だ。
 「桜雨」は、一言で言えば男女の三角関係を綴った物語だった。とはいえ、一人の画家を女性二人が奪い合うのは物語の後半で、この話は、親戚を頼って東京に出てきた一人の田舎娘の半生を描いたものとも言えると思う。
 三角関係の舞台は戦時中の東京だが、冒頭の場面は現代の巣鴨で、その後、一枚の絵の登場によって、その絵が描かれた数十年前と現代との間を、物語は何度も行ったり来たりする。それでも決して混乱することなく、かえって時の蓄積や時代というものが持つ計り知れない力を、否応なく感じさせられた。
 
 時間くらいつかみ所のないものも無いように思う。実体はないようでいて、なによりも確実に存在している。形有るものはいつか必ず消えてなくなるけれど、時間というものは、いろいろな物に姿を映しながら、どこかに積み重なっていく。積み重なっていくのにそのための空間を必要とはしない。考えてみれば、記憶や思い出もどんなに増えようと積み重ねるための空間はいらないわけで、だからこそ誰もが自分の中に果てのない宇宙を持つことが可能なのだろう。
 この小説は構成も巧みだったけれど、細かな描写や内容そのものに引き込まれる部分も多かった。読み終わって思ったのは、人は自分以外の誰かの人生を生きることはできない、ということだ。当たり前のことだけれど。誰もが唯一無二の自分の人生を生きている。どんな人生であれ、この人生は自分にしか生きられないのだ、と思うと、たとえ不本意な日々が含まれていようと、それはそれで受け入れればいいような気がしてくる。

桜雨 (集英社文庫)

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オー!ファーザー

 2014年公開の映画「オー!ファーザー」を観た。原作は伊坂幸太郎、監督、藤井道人、主演、岡田将生
 DVDのジャケットを読んで、父親が4人いる高校生が主人公と知り、面白そうだなと思って
借りてきた。
 普段はサスペンスやミステリーより、家族や人生を描いたようなドラマかコメディを選ぶのだけれど、今回はなんとなくストーリー展開を楽しめそうなものを求めていて、主人公に父親が4人いるという滅多にない設定と、「事件に巻き込まれていく」という紹介文に引かれたのだった。
 父親が4人いて、全員と同居しているなんて、一体どんなドタバタ劇かと思いきや、仕事やその他でいつも不在の母親に代わり、4人の父親たちが抜群のチームワークで一人息子を温かく見守りながら、その生活を支える様子はとても穏やかなものだった。町の黒幕が登場したり、人が死んだり、監禁されたり、事件は確かに起こって主人公もその中心に引き込まれていくし、事件そのものがつまらなかったわけではないのだけれど、事件の真相や解決への興味以上に、父親と息子の関係性に注目して見ていた気がする。(結局、そういう方向から映画をみるのが私の習性なのだろう)
  4人の父親がいて、そのうちの誰か一人とは血が繋がっているなら、それが誰なのか知りたくはないのだろうか、と最初は不思議に思った。でも産まれたときから4人の父親に囲まれて育ち、それが当然の暮らしなら、ある日突然、血が繋がっている父親は一人だけだと言われても、その方がピンと来ないのかもしれない。小さな子どもにとっては自分の生活が世界のすべてだ。父親の4人いる生活を「ずっとそれが普通だった」と、主人公が口にする場面があったのも無理はない。よく思うのだけれど、人の数だけ「普通」がある。
 そして、家族に対して他人には持たない特別な感情を持つのが普通だとしたら、それは血の繋がりのせいばかりではなく、良くも悪くも共に過ごした時間によるのかもしれない、と思ったりした。




ダージリン急行

 2008年に日本公開のアメリカ映画「ダージリン急行」を観た。
 ツタヤで手に取ったとき、DVDのジャケットに、~三兄弟がインドを旅する~ とあったので、一瞬インド映画かと思ったけれど、インドが舞台のアメリカ映画だった。
 疎遠になっていた三兄弟が、長男の呼びかけにより遠くで暮らす母親を訪ねる旅に出る、というのが粗筋といえば粗筋なのだけれど、「母親を訪ねる旅」という文言から予想されがちな郷愁のようなものは、ほとんど感じられなかった。多分、郷愁や家族のしがらみや絆のようなものは、くすりと笑える場面に変えられていて、そがとても良かったように思う。
 三兄弟それぞれの個性がぶつかり合い、ぶつかりっぱなしでも兄弟だから許せたり、許せなくても旅が続いたり、結局許すも許さないもなかったり、目の前で起こるハプニングには三人で対応していたりする。そのことが妙に楽しく気持ちのいい映画だった。
 そして、親子や兄弟であっても、自分以外の誰かの人生に深く関われる時間は、そう長くはないのだと気づかされた。親子も兄弟も、それぞれに生活があれば、運命共同体ではなくなる。そういう意味では夫婦とか共同経営者とかの方が運命共同体に近く、そうした相手がいるというのは、自分の中の宇宙が二倍にも三倍にも広がることなのかもしれない。運命を、たとえ一部であっても共有する以上、その相手をある程度、或いは丸ごと受け入れなければならないだろうし、自分以外の誰かを受け入れるということは、自分の世界が広がるということなのだろうから。

時雨のあと (藤沢周平)

 藤沢周平の「時雨のあと」を読んだ。 
 以前、保坂和志に傾倒して彼の小説ばかり読んでいた頃に、保坂氏の「藤沢周平を読め」という言葉をどこかで見たか聞いたかしたことがあり、それ以来ずっと気になっている作家だった。とはいえ今回手に取ってみて初めて、時代小説を書く作家だと知った。
 私にとって時代小説は、とても心地よく読める本だ。おそらくは単純に、言葉遣いや、そのリズムが、現代のそれより丁寧な響きをもって感じられ、丁寧さは穏やかさに繋がり、穏やかさが心地よさを運んでくるものと思われる。個人的には、小説にハラハラドキドキするような展開をあまり求めておらず、どちらかというと人情味とか、人の生き方に触れたくて読んでいるようなところがあるので、その点でも時代小説には満たされやすいのかもしれない。
 この「時雨のあと」に収録された短編は、先の展開や結末が気になるものも多かった。静かで落ち着いた描写をたどりながら、そうした流れに身を任せるように読み進めていく中で、登場人物たちの心意気や価値観、人生を存分に味わうことができ、最後には何かが自分の中に深く沈み込んでいくような感覚があった。
 贔屓の作家がまたひとり、増えたのかもしれない。

時雨のあと

時雨のあと



阪急電車

 2011年公開の三宅喜重監督作品「阪急電車」を観た。
 冒頭に主人公のモノローグで「人は皆、それぞれの思いを抱えて生きている」というようなことが語られる。その言葉には聞き終わらないうちから、二度三度と頷いた。誰にだって不安や不満や悩み、そういうものの一つや二つ、あるいは三つや四つ、あるに違いない。でも、大抵の不安や不満や悩みには原因があって、原因があるから解決への道も現れるように思える。一つ消えればまた別の悩みが浮上してくるのかもしれないが。
 本当に途方に暮れるのは、原因がわからないときや、原因に自分が関われないとき、気がついたら目の前に受け入れがたい事実があったとき、そういうときではないだろうか。虐待する親の下で暮らしている子どもなとは、それだと思う。虐待ではなくても、自分の力ではどうにもならない現実に打ちのめされることもあるだろう。そうしたときの思いは不安や不満、悩みというより、悲しみや嘆きと呼ぶ方かふさわしいのかもしれないし、どうにも名付けられない「思い」かもしれない。そして、たとえ悲しみや嘆きの中にあっても、他のどんな思いの中にあっても、人は生きていかなければならないものらしい。
 喜びや希望、信頼と呼べるような「思い」も当然あって、人々はそれぞれに様々な思いを抱えているし、人ひとりの中に、色々な思いが存在してもいる。
 一つだけはっきりしているのは、自分の中のそれらの思いに大小はあっても、他者のものと大きさや重さを比べることはできないということだ。おそらくは、これができないから、誰もが孤独なのたろう。
 孤独な者同士だからこそ、ふれあったり寄り添ったり、分かちあったりできるのかもしれない。 
 この映画は、そうしたふれあいを見せてくれた気がする。

阪急電車 片道15分の奇跡 [DVD]

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ツナグ (辻村深月)

 辻村深月の「ツナグ」を読んだ。 
 この作家の直木賞受賞作「鍵のない夢を見る」を数年前に読んでいて、物語の意外な展開に引き込まれながら、存分に楽しんだ記憶がある。
 「ツナグ」も、意外な展開というか周到な真実というか、読み進めば進むほど読者を引き付けるストーリーが用意されていて、最後には全てが腑に落ちるよう、惜しげなく種明かしをしてくれた。そうした緻密な構成に脱帽しつつ、その中で見え隠れする人の心の機微こそが、この本の魅力になっているように感じている。
 この物語の中で、登場人物たちは死んでしまった誰かにもう一度会いたいと心底願い、その願いを叶えるけれど、なぜ会いたかったのかを考えると、確かめたいことがあったから、だと思われる。そしてその確かめたいことは、相手が死んでしまったために沸き起こったことでなく、生きているときからあったことだった。
 「死」は、取り消しのきかない、取り返しのつかない出来事だ。少なくとも生きている者にとっては。それはなぜだろうと考えると、「生きていること」「産まれてきたこと」が、「死」と同様に取り返しのつかないことであり、人は皆、取り消しのきかない毎日を生きているのだと思わされる。


ツナグ(新潮文庫)

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ツナグ

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女たちのジハード(篠田節子)

 1997年の直木賞受賞作品、篠田節子の「女たちのジハード」を読んだ。
 読み始めてすぐ、目の前に現れたのは、90年代のバブルが弾けた頃のOLたち。OLという言葉だけで、すでに時代が透けて見えるようだ。そうか、20年も前の話なんだな、と感じたときは、ほんの少し、多分一瞬、読み進めるのを躊躇うような感覚があった。それは、読後に「昔はこうだったなぁ」という感想しか残らないのでは、と危惧したせいかもしれない。でもそんな考えはまったく的外れだった。
 文庫の裏表紙にある通り、これは中堅保険会社に勤める5人のOLたちが、それぞれに踏まれても虐げられても逞しく自分の人生を切り開いていく物語だった。5人が5人とも年齢も性格もバラバラで、本人にしか生きられない本人の人生を生きていく。その人にしか生きられない、というのは、言い換えればその人にしかもたらされない、ということだと思う。この本の中の女性たちは、確かに自分の人生を自分で選んでつかみとっていった。でも、その選択肢は驚くほど少ないように感じる。現実の人生でも同じで、生まれついた環境や遺伝子が作り出す個性によって、人生の選択肢はかなり絞られてくる。それは、無理だと思って諦める、というのとは、次元が違うことのように感じる。 そして、待っているだけでは始まらないけれど、捨てることや選びとることを決断して進んだ道も、その機会を与えられればこそだろう、と思う。
 どう捉えようと、誰にとっても人生は一度しかない。たった一つの自分の人生を、少し距離を置いて眺め、温かく見守るような気持ちを持てたとき、自分の人生を受け入れることができた、と言えるのかもしれない。

女たちのジハード




永遠のとなり (白石一文)

 白石一文著「永遠のとなり」を読んだ。
 この作家の10冊目の本で2007年に刊行されている、と解説にあった。同じく解説に「人生の意味を真正面から問いかける思索的な作風」とあり、私自身、物事に意味付けをしたがる性分のせいか、そうした作風がとてもしっくりきたように感じる。
 主人公は40代後半の男性で、離婚とうつ病を経験したばかりの彼は、故郷の福岡に戻ってひとり暮らしをしている。その街には幼なじみでもある親友が住んでいて、二人の交流や生活が描かれているのだが、その交流や生活を通して、主人公の考え方や価値観が色濃く深く映し出されていた。
 これまで、小説にはストーリーを楽しむものと、描写、つまりは作家の表現力を楽しむものがあるな、と思っていたけれど、もう一つ、登場人物の掘り下げられた考え方や価値観に、あるいはそれが変化していく過程に触れることを楽しむ、という読み方があることに気づいた。過去にも登場人物の考え方に感心したり共感したり考えさせられたりしながら、それを楽しんだ小説はいくつもあったはずなのに、今回改めて気づかされたように、思う。 
 この本のなかで特に印象的だったのが、主人公の「幸せなんてグリコのおまけみたいなもんやと思うとる。あった方がよかけどないならないでも別に構わんとよ」という言葉だ。ここ一年ほど、「幸せはなるものではなく気づくもの」とか、「自分の幸せを追ってください」などという言葉に出会ううちに、幸せとはそんなに追い求めたり気づいたりしなければならないものなのだろうか、と疑問に感じ始めていた。自分が不幸ではないことを知っているし、仕事があって今日もご飯が食べられて自分の足でどこにでも行けるというような小さな幸せならたくさん持っていることも分かっている。これ以上幸せを追ったり、幸せだ幸せだと騒がなくても別にいいではないか、という本音が私の中にあったせいで、上記の言葉に、やけに共感できたのだろう。
 幸せがないならないで構わないなんて、投げやりに聞こえたり、やせ我慢のように思われたりするかもしれないけれど、この主人公の言葉は「大事なんは生きてるちゅうことだけで」に続いている。
永遠のとなり





友だちのパパが好き

 2015年公開の山内ケンジ監督作品「友だちのパパが好き」を観た。 
 様々な感じ方ができそうな、様々な側面を持つた映画だった。 
 正直さ、素直さと捉えるか、自分勝手と捉えるか、非常識と見るか自由と見るか、純愛なのか狂気なのか、どれもが紙一重、というより、とれにも境界などなく、どれもが相容れるものなのだろう。
 昔から「自己主張するべきだ」というような言葉を聞くと、こちらは自己主張のつもりでも、相手によってはわがままと思われるのではないかと考えたものだった。どこまでが自己主張でどこからがわがままかという線引きは、やはり人それぞれの考え方や立場によって変わってくるのだろう。公正や公平といったことも、結局は人の判断によるものなら、何だか頼りない気もしてくる、などと言っては極端だろうか。
 映画に話を戻すと、娘の友人に猛アタックされ、その勢いにのみ込まれるようにして妻だけでなく愛人にも背を向け、娘と同い年の女性に走る父親は、いかにも身勝手な男に映るのだけれど、最後は事件が起きて、父親と若い女性の二人が一命をとりとめたところで終わってしまう。二人が、相手も助かったことを知って喜び合っているような場面で終わるのだが、果たして10年後20年後も、この二人は仲良く暮らしているのだろうかと考えると、何か浅はかさのようなものを見せられた気がした。とはいえ、それが人の浅はかさなのか、恋愛の、なのか、もっと別の何かのなのか、判然とはしない。
 個人的には、妻だけでなく、妊娠を告げた愛人もかなり気の毒に思えたが、だからといって愛人に感情移入するほどでもなく、終始俯瞰するような感じで鑑賞していた。映画にはそういう味わい方もあるのだなと思った。

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長いお別れ (中島京子)

 中島京子の「長いお別れ」を読んだ。
 アルツハイマー認知症を発症した父親が人生を閉じるまでの10年間を綴った物語で、父親を支える家族の物語だった。と言っても、病気に焦点が当たっている感じはなく、オムツや排泄物が登場しても、家族の大変さが悲愴感としては伝わってこなかった。家族の中に「認知症になどなってほしくなかった」というような気持ちがないことはないだろうと思うのだが、それ以上に「病気になってもお父さんはお父さん」とでもいうような姿勢が満ちていたからかもしれない。
 認知症の夫(父親)と献身的な妻、成長した3人の娘たちとの関わりが、物語の中心なのだが、時々、家族は知るよしもないような他人と父親との接触が描かれていて、それがあることで、この小説がより身近に、現実にあり得る話として立ち上がっていた気がする。 


長いお別れ




キラキラ共和国 (小川糸)

 小川糸の「キラキラ共和国」を読んだ。
「ツバキ文具店」の続編となるこの作品、図書館に予約して順番が回ってくるまでに、およそ一年かかったということは、今なお相当な人気のようだ。
 ツバキ文具店の店主である主人公、鳩子の入籍の報告から始まり、妻となり、家族を持つ身となった彼女の生活や考え方の変化が、結婚前から持ち続けている彼女の性質や精神を土台に描かれている。なんというか、この主人公は妖精か何かではないかと思うほど、澄んだ心の持ち主に見えるのは、私という読み手の心がすさんでいるからだろうか。妖精、などというと、か弱く小さい存在のイメージかもしれないけれど、鳩子はか弱くなどなく、いつも堂々としている印象だ。それは多分、自分自身に対して潔いからだろう。周りの人の意見や気持ち、もっと広い範囲でいえば常識という名の世間体、そういうものに気を配ってばかりいると、いつの間にか自分に嘘をつくことに慣れてしまったり、或いは自分が自分に嘘をついていることに気づかなくなってしまうこともあるように思う。少し前にどこかで「自分に嘘をつけば、周りの人にも嘘をついていることになるのだ」という文を目にして、はっとした。相手を思いやったつもりでも、実のところは不誠実とも言える行動を続けていれば、いつか歪みがあらわになったり、積み重ねたはずのものが音をたてて崩れるようなことにもなりかねないのだ。
 人を傷つけてもいいとは言いたくないが、自分が傷つくことを恐れる人ほど、相手を傷つけまいとするのかもしれない。そもそも、自分の気持ちを伝えて話し合えば理解されたのに、伝える勇気がなかっただけだとしたら、とんでもなくもったいないことに思える。
 おそらくは、傷つけることも傷つくことも恐れない誠実さ、それを持てる人が、潔く生きていけるのだろう。

キラキラ共和国



リトル ミス サンシャイン

リトル・ミス・サンシャイン [DVD]
 2006年のアメリカ映画「リトル ミス サンシャイン」を観た。 
 10才の少しポッチャリした女の子が、家族の応援のもと、美少女コンテストに優勝を目指して出場するという話で、コンテスト当日、家族みんなで会場に向かうのだが、その道中に様々なことが家族それぞれの身の上に起こる。そのどれもが、その事だけを取り上げたら大層深刻て衝撃的で重大な出来事なのに、何はともあれその日はコンテスト会場へ時間までに到着し、出場することが最優先事項となってしまう。小さな女の子が過酷なダイエットや歌や踊りの厳しいレッスンに耐えて、こんなに頑張ってきたのだから、というわけでもないのだ。そこがこの映画のみどころで、ミスコン(美少女コンテスト)に焦点が当たっているようでいて、実は家族それぞれの人生が映し出されており、さらにその一人ひとりを構成要因とする「家族」というものが浮き彫りになる。
 直近に読んだリリー・フランキー著の「東京タワー」も、母親の人生を描いたものであったが、そこには息子の人生も映し出されていた。
家族というものは、そうやってお互いに相手の人生が自分の中に映し出されるような関係に、自然となっていくものなのだろう。だから、実は共存できる相手ではなかった、とか、とてもこの人の人生は引き受けられない、となった時は、家族関係を解消するという道もあるのだろう。とはいえ、血の繋がりは消せるものではないから、解消できる家族関係というのは夫婦の間くらいのものかもしれないけれど。

 この映画の家族たちは皆、本人は大真面目なのに、どこかコミカルさを醸しだしていた。最後はそのコミカルさがいつの間にか温かさに包まれていて、「家族」というものの正体を見せられたような気がした。
 



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