映画と本と言葉たち

観た映画や読んだ本についての一人よがりの感想などを、勝手気ままに綴っています。

ツナグ (辻村深月)

 辻村深月の「ツナグ」を読んだ。 
 この作家の直木賞受賞作「鍵のない夢を見る」を数年前に読んでいて、物語の意外な展開に引き込まれながら、存分に楽しんだ記憶がある。
 「ツナグ」も、意外な展開というか周到な真実というか、読み進めば進むほど読者を引き付けるストーリーが用意されていて、最後には全てが腑に落ちるよう、惜しげなく種明かしをしてくれた。そうした緻密な構成に脱帽しつつ、その中で見え隠れする人の心の機微こそが、この本の魅力になっているように感じている。
 この物語の中で、登場人物たちは死んでしまった誰かにもう一度会いたいと心底願い、その願いを叶えるけれど、なぜ会いたかったのかを考えると、確かめたいことがあったから、だと思われる。そしてその確かめたいことは、相手が死んでしまったために沸き起こったことでなく、生きているときからあったことだった。
 「死」は、取り消しのきかない、取り返しのつかない出来事だ。少なくとも生きている者にとっては。それはなぜだろうと考えると、「生きていること」「産まれてきたこと」が、「死」と同様に取り返しのつかないことであり、人は皆、取り消しのきかない毎日を生きているのだと思わされる。


ツナグ(新潮文庫)

ツナグ(新潮文庫)

ツナグ

ツナグ




女たちのジハード(篠田節子)

 1997年の直木賞受賞作品、篠田節子の「女たちのジハード」を読んだ。
 読み始めてすぐ、目の前に現れたのは、90年代のバブルが弾けた頃のOLたち。OLという言葉だけで、すでに時代が透けて見えるようだ。そうか、20年も前の話なんだな、と感じたときは、ほんの少し、多分一瞬、読み進めるのを躊躇うような感覚があった。それは、読後に「昔はこうだったなぁ」という感想しか残らないのでは、と危惧したせいかもしれない。でもそんな考えはまったく的外れだった。
 文庫の裏表紙にある通り、これは中堅保険会社に勤める5人のOLたちが、それぞれに踏まれても虐げられても逞しく自分の人生を切り開いていく物語だった。5人が5人とも年齢も性格もバラバラで、本人にしか生きられない本人の人生を生きていく。その人にしか生きられない、というのは、言い換えればその人にしかもたらされない、ということだと思う。この本の中の女性たちは、確かに自分の人生を自分で選んでつかみとっていった。でも、その選択肢は驚くほど少ないように感じる。現実の人生でも同じで、生まれついた環境や遺伝子が作り出す個性によって、人生の選択肢はかなり絞られてくる。それは、無理だと思って諦める、というのとは、次元が違うことのように感じる。 そして、待っているだけでは始まらないけれど、捨てることや選びとることを決断して進んだ道も、その機会を与えられればこそだろう、と思う。
 どう捉えようと、誰にとっても人生は一度しかない。たった一つの自分の人生を、少し距離を置いて眺め、温かく見守るような気持ちを持てたとき、自分の人生を受け入れることができた、と言えるのかもしれない。

女たちのジハード




永遠のとなり (白石一文)

 白石一文著「永遠のとなり」を読んだ。
 この作家の10冊目の本で2007年に刊行されている、と解説にあった。同じく解説に「人生の意味を真正面から問いかける思索的な作風」とあり、私自身、物事に意味付けをしたがる性分のせいか、そうした作風がとてもしっくりきたように感じる。
 主人公は40代後半の男性で、離婚とうつ病を経験したばかりの彼は、故郷の福岡に戻ってひとり暮らしをしている。その街には幼なじみでもある親友が住んでいて、二人の交流や生活が描かれているのだが、その交流や生活を通して、主人公の考え方や価値観が色濃く深く映し出されていた。
 これまで、小説にはストーリーを楽しむものと、描写、つまりは作家の表現力を楽しむものがあるな、と思っていたけれど、もう一つ、登場人物の掘り下げられた考え方や価値観に、あるいはそれが変化していく過程に触れることを楽しむ、という読み方があることに気づいた。過去にも登場人物の考え方に感心したり共感したり考えさせられたりしながら、それを楽しんだ小説はいくつもあったはずなのに、今回改めて気づかされたように、思う。 
 この本のなかで特に印象的だったのが、主人公の「幸せなんてグリコのおまけみたいなもんやと思うとる。あった方がよかけどないならないでも別に構わんとよ」という言葉だ。ここ一年ほど、「幸せはなるものではなく気づくもの」とか、「自分の幸せを追ってください」などという言葉に出会ううちに、幸せとはそんなに追い求めたり気づいたりしなければならないものなのだろうか、と疑問に感じ始めていた。自分が不幸ではないことを知っているし、仕事があって今日もご飯が食べられて自分の足でどこにでも行けるというような小さな幸せならたくさん持っていることも分かっている。これ以上幸せを追ったり、幸せだ幸せだと騒がなくても別にいいではないか、という本音が私の中にあったせいで、上記の言葉に、やけに共感できたのだろう。
 幸せがないならないで構わないなんて、投げやりに聞こえたり、やせ我慢のように思われたりするかもしれないけれど、この主人公の言葉は「大事なんは生きてるちゅうことだけで」に続いている。
永遠のとなり





友だちのパパが好き

 2015年公開の山内ケンジ監督作品「友だちのパパが好き」を観た。 
 様々な感じ方ができそうな、様々な側面を持つた映画だった。 
 正直さ、素直さと捉えるか、自分勝手と捉えるか、非常識と見るか自由と見るか、純愛なのか狂気なのか、どれもが紙一重、というより、とれにも境界などなく、どれもが相容れるものなのだろう。
 昔から「自己主張するべきだ」というような言葉を聞くと、こちらは自己主張のつもりでも、相手によってはわがままと思われるのではないかと考えたものだった。どこまでが自己主張でどこからがわがままかという線引きは、やはり人それぞれの考え方や立場によって変わってくるのだろう。公正や公平といったことも、結局は人の判断によるものなら、何だか頼りない気もしてくる、などと言っては極端だろうか。
 映画に話を戻すと、娘の友人に猛アタックされ、その勢いにのみ込まれるようにして妻だけでなく愛人にも背を向け、娘と同い年の女性に走る父親は、いかにも身勝手な男に映るのだけれど、最後は事件が起きて、父親と若い女性の二人が一命をとりとめたところで終わってしまう。二人が、相手も助かったことを知って喜び合っているような場面で終わるのだが、果たして10年後20年後も、この二人は仲良く暮らしているのだろうかと考えると、何か浅はかさのようなものを見せられた気がした。とはいえ、それが人の浅はかさなのか、恋愛の、なのか、もっと別の何かのなのか、判然とはしない。
 個人的には、妻だけでなく、妊娠を告げた愛人もかなり気の毒に思えたが、だからといって愛人に感情移入するほどでもなく、終始俯瞰するような感じで鑑賞していた。映画にはそういう味わい方もあるのだなと思った。

友だちのパパが好き [DVD]

 


長いお別れ (中島京子)

 中島京子の「長いお別れ」を読んだ。
 アルツハイマー認知症を発症した父親が人生を閉じるまでの10年間を綴った物語で、父親を支える家族の物語だった。と言っても、病気に焦点が当たっている感じはなく、オムツや排泄物が登場しても、家族の大変さが悲愴感としては伝わってこなかった。家族の中に「認知症になどなってほしくなかった」というような気持ちがないことはないだろうと思うのだが、それ以上に「病気になってもお父さんはお父さん」とでもいうような姿勢が満ちていたからかもしれない。
 認知症の夫(父親)と献身的な妻、成長した3人の娘たちとの関わりが、物語の中心なのだが、時々、家族は知るよしもないような他人と父親との接触が描かれていて、それがあることで、この小説がより身近に、現実にあり得る話として立ち上がっていた気がする。 


長いお別れ




キラキラ共和国 (小川糸)

 小川糸の「キラキラ共和国」を読んだ。
「ツバキ文具店」の続編となるこの作品、図書館に予約して順番が回ってくるまでに、およそ一年かかったということは、今なお相当な人気のようだ。
 ツバキ文具店の店主である主人公、鳩子の入籍の報告から始まり、妻となり、家族を持つ身となった彼女の生活や考え方の変化が、結婚前から持ち続けている彼女の性質や精神を土台に描かれている。なんというか、この主人公は妖精か何かではないかと思うほど、澄んだ心の持ち主に見えるのは、私という読み手の心がすさんでいるからだろうか。妖精、などというと、か弱く小さい存在のイメージかもしれないけれど、鳩子はか弱くなどなく、いつも堂々としている印象だ。それは多分、自分自身に対して潔いからだろう。周りの人の意見や気持ち、もっと広い範囲でいえば常識という名の世間体、そういうものに気を配ってばかりいると、いつの間にか自分に嘘をつくことに慣れてしまったり、或いは自分が自分に嘘をついていることに気づかなくなってしまうこともあるように思う。少し前にどこかで「自分に嘘をつけば、周りの人にも嘘をついていることになるのだ」という文を目にして、はっとした。相手を思いやったつもりでも、実のところは不誠実とも言える行動を続けていれば、いつか歪みがあらわになったり、積み重ねたはずのものが音をたてて崩れるようなことにもなりかねないのだ。
 人を傷つけてもいいとは言いたくないが、自分が傷つくことを恐れる人ほど、相手を傷つけまいとするのかもしれない。そもそも、自分の気持ちを伝えて話し合えば理解されたのに、伝える勇気がなかっただけだとしたら、とんでもなくもったいないことに思える。
 おそらくは、傷つけることも傷つくことも恐れない誠実さ、それを持てる人が、潔く生きていけるのだろう。

キラキラ共和国



リトル ミス サンシャイン

リトル・ミス・サンシャイン [DVD]
 2006年のアメリカ映画「リトル ミス サンシャイン」を観た。 
 10才の少しポッチャリした女の子が、家族の応援のもと、美少女コンテストに優勝を目指して出場するという話で、コンテスト当日、家族みんなで会場に向かうのだが、その道中に様々なことが家族それぞれの身の上に起こる。そのどれもが、その事だけを取り上げたら大層深刻て衝撃的で重大な出来事なのに、何はともあれその日はコンテスト会場へ時間までに到着し、出場することが最優先事項となってしまう。小さな女の子が過酷なダイエットや歌や踊りの厳しいレッスンに耐えて、こんなに頑張ってきたのだから、というわけでもないのだ。そこがこの映画のみどころで、ミスコン(美少女コンテスト)に焦点が当たっているようでいて、実は家族それぞれの人生が映し出されており、さらにその一人ひとりを構成要因とする「家族」というものが浮き彫りになる。
 直近に読んだリリー・フランキー著の「東京タワー」も、母親の人生を描いたものであったが、そこには息子の人生も映し出されていた。
家族というものは、そうやってお互いに相手の人生が自分の中に映し出されるような関係に、自然となっていくものなのだろう。だから、実は共存できる相手ではなかった、とか、とてもこの人の人生は引き受けられない、となった時は、家族関係を解消するという道もあるのだろう。とはいえ、血の繋がりは消せるものではないから、解消できる家族関係というのは夫婦の間くらいのものかもしれないけれど。

 この映画の家族たちは皆、本人は大真面目なのに、どこかコミカルさを醸しだしていた。最後はそのコミカルさがいつの間にか温かさに包まれていて、「家族」というものの正体を見せられたような気がした。
 



/div>

東京タワー / オカンとボクと、時々オトン (リリー・フランキー)

 2005年初版のリリー・フランキー作「東京タワー オカンとボクと、時々オトン」を読んだ。
 筆者が自分の体験を振り返って書いたという小説で、具体的な出来事を通して、お母さんへの想いはもちろん、リリーさんの中の広大な宇宙が見事に描かれていたように思う。
 お母さんの人生を見つめることで、いろいろなことを掘り下げていた。
 「親子」「家族」「夫婦」「世間」「貧しさ」「自由」「仕事」「時代」「人生」「幸福」これら全てのことの捉え方が冷静で慎ましく誠実な印象で、心に沁みる文章がたくさんあった。
 誰だって起こってしまったことはなかったことにできない。失恋も就職も結婚も病気も。人生は意志でコントロールできるものではない。人はそもそも自分の意志で生まれてきてはいない。生まれる国も時代も選んだわけではない。与えられた人生をどう受け止めるか、なのだろう。生き方というのは、自分の人生の受け止め方なのかもしれない。
 本を読んでいて、これは覚えておきたいと思う表現や文章に出会うと、書き留めておくこともあるのだけれど、この本から書き抜いていたらB5判のノートを5ぺージも使っていた。その中から特に好きな言葉をここに残しておく。
「東京でも田舎でも、どこでも一緒よ。結局は誰と一緒におるのか、それが大切なことやけん。」
 

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~
東京タワー オカンとボクと、時々、オトン(2枚組) [DVD]



寝ずの番 (中島らも)

 中島らもの短編集「寝ずの番」を読んだ。
 最初に「寝ずの番」が1から3まで、三部作で登場するのだけれど、咄家の話で、「1」で師匠が死に、「2」で兄弟子が死に「3」で師匠の奥さんが死んだという話だったので、近しい人がそんなにポンポン亡くなるなんてことは、現実にはそうないだろうと、フィクションのつもりで読んでいたら、どうやら実話に基づく話だったようでそこは驚いた。他の収録作品にも、作者を含め、実在の人物が実名のまま登場するものあがり、実生活が作品に盛り込まれていたり、題材となっていることは十分感じられるのだが、それでも読む側には「小説」という体裁で伝わってくることが、不思議と言えば不思議だ。
 文庫の背表紙に「ちょっとHで、笑撃的ならもワールドを満喫できる短編集」といったような文句があったが、本当にその通りで、娯楽として大いに楽しめる本だった。
 会社員も経験し、劇作家、小説家、随筆家、ミュージシャン、俳優、と様々な顔をもち、アル中や躁鬱病とも共に生きた作者本人の人生と同じように、作品も相当に多様なものが書かれたのではないかと想像する。次にこの作家の本を手に取るときが楽しみだ。

 
寝ずの番


探偵はBARにいる

 大泉洋主演の「探偵はBARにいる」を観た。
 以前はどんな物語であれ、人が殴り合うようなシーンはあまり好きではなかったのに、この映画の中の探偵とヤクザのやり合う場面には、どこか爽快さすら感じたのは、松田龍平演じる主人公の相棒が、気持ちいいほど強かったからだろう。ただ、最後に美しい女性がこめかみを撃って自死する場面は、顔を映してほしくなかった、というのが正直なところだ。もっと言うと人が銃で撃たれて死ぬシーンが多く、その度に目を背けたかった。私は気が弱いのか、リアルに感じ過ぎなのか、それとも私と同じような人もたくさんいるのか、わからないけれど。
 ストーリーとしてはミステリーで、しかも結構入り組んだ謎だったと思うけれど、謎解きを楽しんだというよりは探偵たちの日常を楽しく鑑賞した感じだ。主人公とその相棒の人柄やコメディタッチな展開のお陰で、たくさんの血が流れても、作品全体が明るさを持っていたのかもしれない。
 大泉洋は他に類をみない個性的な俳優のように思う。本当に魅力的だ。とはいえ松田龍平の方に気持ちを持っていかれる女性も多いだろう。などと言うと大泉洋はずっこけるだろうか。松田龍平ポンコツ車に向かって「ごめんね」と言葉をかける場面が私は好きだ。彼もまた、どんな役でもモノにする非凡な役者のように思う。

探偵はBARにいる 通常版 [DVD]
探偵はBARにいる 【DVD3枚組】「探偵はここにいる! ボーナスパック」





エイジ (重松清)

  重松清著の「エイジ」を読んだ。 
 中学2年生の男子が主人公の物語で、「人が子どもから大人へと成長する過程を描いている」のかもしれないけれど、読んでいる間は、そんなふうにはまるで感じていなかった。読後に内容を振り返れば、そういうことになるけれど、小説の中にいるときはそこまで客観的にはなれない。
 何か出来事に出会ったときの心の揺れや、その出来事を通しての自分自身の変化というものは、中学生2年生でなくてもきっとあるはずで、だからだろうか、自分の年齢とはかけ離れた主人公の日常を、同級生の一人になったような気持ちで、最後まで読んだ。
 人と人が関わるということや、自分の心とどう向き合って、或いはそれにどう対処していけばいいのかを考えるためのヒントが、重松作品にはいつも溢れている気がする。いや、ヒントというのは少し違うかもしれないけれど。
 この本を読んで「どんな自分も自分だし、その自分を受け入れてもらいたいという欲求は、当たり前のものなのだ」と思えた。
 誰もが、誰かには全面的に受け入れてもらいたいのだろう。


エイジ (朝日文庫)





おと な  り

「おと な  り」を観た。 
 映像が美しい映画だった。桜の花びらに投写しているかのような、儚げな美しさがあって、他の映画とは映像の質感が違っていた。作品全体に、なんだか童話のような雰囲気があったように思う。
 ストーリー展開としては、ありそうにない偶然が重なり過ぎのような気がしないでもなかったけれど、世界のどこかに、本当にこんな偶然があってほしいと思えるような映画だった。
 主人公の同僚の言葉で、印象に残ったものがあるので書き留めておく。
「いい加減にやめなよ。人のせいにして自分許すの」
 言葉通り意味の、ストレートな表現だけれど、解釈次第で誰にでも当てはまる場面がありそうな、深い言葉の気がした。
 童話のような気配を漂わせながらも、この物語が現代を生きる男女を描いたものとして成立しているのは、主人公と関わる回りの人たちが、こうした言葉を要所要所で投げかけているからかもしれない。


おと・な・り [DVD]




ショートカット (柴崎友香)

 柴崎友香の「ショートカット」を読んだ。
この作家の作品は、数年前に読んだ「春の庭」に続いて二作目になる。
 「春の庭」を読んだ時には私が気づかなかった柴崎さんの持ち味、のようなものが、今回はうっすらとかもしれないけれど見えたように感じている。
 普段、たとえば電車に乗っているときなどに、「お互い認識できなくても、この車両に、昔旅先ですれ違った人が乗っていたりするかもしれない」などと思うことがよくあって、それは感傷とは違う、単なる物の(世界の)見方として表れる考えなのだけれど、だから何、と言われたら答えようのない、宙ぶらりんな思考だ。でもその宙ぶらりんな思考も、実はベクトルを持っているのだと、この小説は示しているような気がする。さらに、この小説には人の心理や感情といったものを、世界を構成する物体として捉えている感じがあって、そこがなんだか新鮮だった。
 自分の気持ちを「物」のように眺めて、少し距離をおくことができれば、見える世界がぐんと広がったり、180度変わったりするかもしれない。これからは私も、時々は自分の気持ちや感情と、そんな風に接してみたいと思う。


ショートカット


森山中教習所

 賀来賢人野村周平が共演した2016年公開の映画「森山中教習所」を観た。 
 ツタヤでタイトルを見るまで、この作品の存在も原作のコミックの存在も知らなかった。ちょうど家族が免許合宿中だから、なんとなく引っかかって、そのくらい何気なく借りてきたのだけれど、三泊で借りてきて三日間毎晩観てしまった。
 感動したとか、そういう訳でもなく、すごく面白かったと言いたい訳でもなく、なんだかとてもさりげない映画だったように思う。
 でも三日の間に三回観た作品など初めてで、ただ暇だったから観たということでもない気がする。
「人として間違ってる」という言葉が、こんなに前向きに明るく響くのを初めて聞いた。そしてこの言葉に妙に励まされてしまったように思う。
 教習所に通って免許を取るなんていうことは、大抵の人が通過する普通のことかもしれないけれど、車の運転ができるようになるというのは、大きな変化だ。実はとても大きな変化を、そうとは意識せず人は繰り返していくのかもしれない。そしてもう二度と会えないと思っていてもめぐり会ったり、また会えると思っていても二度と会えなかったりする。
 何でもない人生なんて、そうあるものではないのかもしれない。

森山中教習所 [DVD]

まゆみのマーチ (重松清)

 この作家の自選短編集・男子編「卒業ホームラン」に続き、自選短編集・女子編「まゆみのマーチ」を読んだ。
 「卒業ホームラン」の読後に述べた通り、重松清作品の温かさや、人の心の、というか人そのもののというか、掘り下げ方にはやはり引き込まれるものがあり、他の著作もぜひ読んでみたいと思った。
 この本を読んで思い出したことがある。それは「子の心、親知らず」ということだ。ずいぶん昔だけれど「親の心子知らず」という言葉を聞いて、子どもの立場にしてみれば「子の心親知らず」と言いたいように思ったのだ。自分が親になってからも、子ども時代にそう感じたことを否定する気にはなれない。
 ただ、個人的には、子どもの心を知ることはできなくても、子どもの存在を丸ごと受けとめることのできる親でいたいと思う。子どもの言うことに耳を傾け、やることや考えていることを、時には理解できなくても、それがあなたなのねと認めて、受け入れたい。どんなときもそうするということが、子どもの味方でいることなのではないかと思う。


まゆみのマーチ: 自選短編集・女子編 (新潮文庫)